アーカイブ | 10月 2017

2017年10月29日

「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(Ⅰペトロ4:12-13)

「火のような」とは、金を熱して不純物を取り除くという意味です。試練には、いよいよイエス様に対する信頼を確かなものとするため、という意味があります。試練によって苦しむことは、いよいよイエス様に近くあることの証となるのです。だから、喜びなさいと言われています。試練も、それが「キリストの苦しみ」の一部と思い、受け入れていく時、苦しみに意味があることを知ることになります。イエス様が十字架で苦しまれたのですから、その苦しみの僅かでも担わせていただくことが私たちの道ではないかと、教えられるのです。

2017年10月22日

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(ローマ11:36)この言葉が、ローマ書1章から11章までの最後の言葉です。十字架の福音、信仰によってのみ救われること、万人の救いなどが語られました。パウロの結論は、全ての人が神様の愛と憐れみの中にあるのだから、がっかりしたり、逆に高ぶったりしないで、全てを委ね、生きていきましょうと言うことでした。「すべて」が神様の御手の中にあります。神様は、見ていてくださるのです。守り支えて下さっておられるのです。それだから、12章以後の実践的教えにアーメンと言うことができるのです。

2017年10月15日

「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(Ⅰペトロ3:15) 福音の反対者たちと戦うために理論武装しましょうということではありません。単純に身近な人にも、どうしてクリスチャンになったのですか、教会に行くのですかと言われたら、困ったりしないで、喜んで私たちに与えられた希望を語りましょう、と言うことです。聞かれることがあったら、それは嬉しいことです。聖霊が何をどういえばよいか、教えてくださいます。私たちがまずキリスト者として「いる」ということだけでもすばらしいことなのだと思うのです。そして、ここに私たちの教会が「ある」ということも。感謝です。

2017年10月8日

「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(Ⅰペトロ2:21) これは「召し使いたち」に語られた言葉です。不当な苦しみや苦痛をも我慢しなさい、忍耐しなさいと言われています。キリストが模範を示されたのだから、と言われています。このみ言葉が記された時代は、奴隷制度が当然のようにあった時代です。イエス様の受けた傷によって召し使いの人々は慰めと癒しが与えられました。「善を行って苦しみを受ける」ことを選び取るために召されたのです。イエス様の愛の力でただ我慢するだけではなく、ののしられてもののしり返さない(23)力も与えられた人たちがいたことを思います。そういう生き方ができるくらい、イエス様の十字架は強いと思います。

2017年10月1日

「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)

「霊の乳」とは、「福音として告げ知らされた言葉」(1:25)です。イエス様が罪人である私たちのために悔い改める以前から私たちを選び分け、闇の中から光の中へ招き入れてくださいました。その神様の業を私たちが伝えていくためにです。救われた私たちは、喜んでその働きに与らせていただくのです。