アーカイブ | 10月 2023

2023年10月29日

聖書の時代、罪の悔い改めや特別な感謝をしたい時や、神殿や神の幕屋という礼拝場所での正式な礼拝では、神さまに動物の肉を献げていました。脂身は焼き尽くす献げものと呼ばれ、美味しそうな香りのする煙を天におられる神さまにお届けすることで、人の罪深さに怒る神さまをなだめる、なだめの香り、とも呼ばれました。赤身の部分は、良く血抜きした後、しっかりと焼くか、煮られました。肉は祭司が切り分け、祭司や礼拝に仕える人々、そして献げた人とその家族が分けて食べました。つまり、聖書の時代の礼拝は、焼き肉パーティーでもあったのです。古代社会にとって焼き肉はごちそうでした。ですから、礼拝で肉が献げられ、皆が分けて食べる焼き肉パーティーは、大変な喜びの時でもあったはずです。但し、この献げられた肉は、基本的に聖書の神さまを信じる人々だけに分け与えられました。少し聖餐式に似ていますね。しかしもちろん礼拝以外で焼き肉ができなかった訳ではありません。申命記12章15節では、誰でも普段の食事の中で肉を食べてもよい、と記しています。礼拝とは異なるけれども、信仰のあるなしにかかわらず、どんな人とも神さまの祝福を共に分かち合う喜びの時を持つことが大事なのだと、聖書は教えているのではないでしょうか。

2023年10月22日

宗教改革者、マルティン・ルターは、キリスト者とは罪赦された罪人である、と表現しました。罪が赦されているのですが、なおも罪を犯すことのある弱さを持っている、という自らを戒める、謙遜した意味なのでしょう。テトスという人は、クレタ島という場所に開拓伝道をしたようです。しかし、クレタ島という場所に住む人々は、なかなかにしたたかな人が多かったようです。イエス様を信じ、心清められたいと願いながらも、差別意識があったり、ユダヤ人の悪い宗教習慣を持ち込んで信仰の身分制度みたいなものを言い出す人もいたのかも知れません。テトスへの手紙2章1節では、世の中の人々の悪い習慣や、キリスト者たち自身の誘惑の弱さにも負けず、健全な教えに適うことを語り続けるように、と励ましています。2-3節では、先ず年長者たちが自ら模範を示すことで、若い人々を言葉だけではなく、人生そのものによって健全な教えを伝えることが出来ると言っているようです。人生の中で罪深さと赦される喜びを多く経験してきた年長者たちこそ、清められ健全な生活を送る者へと変えられる恵みを伝えるに相応しい説得力があるのだと聖書は教えているのではないでしょうか。

2023年10月15日

マタイによる福音書5章8節は、「至福八端/真福八端」と呼ばれているお話の一部です。イエス様はこの時、短く、そして印象的な表現で神さまのお言葉を教えておられます。無理に短く話すと「尻切れとんぼ」になって大事な結論が解らなくなったりするものです。しかし、イエス様のお言葉は、短くても聞いている人々が自らその意味を考え、一人一人が自分のやり方でその教えに生きることが出来るので、十分な内容となっています。現代社会ではSNSのツイッター(現、X)が好んで使われていますが、多くの人はどんな時代でも短く、端的に言葉を聞くことを好む性質があるのかも知れません。「清い」と訳されたギリシア語「カサロス」はBDAGという辞典によれば「不道徳から自由である」という意味で使われますが、「不純物のない清潔な水」という表現でも使われます。「心の清さ」というのは、日常的な清潔さと結びついた表現であるようです。日常の生活というのはホコリがつもったり、垢が出たりするものです。人は日常的に掃除をすることで清潔さを保つことが出来ます。「心の清い」人というのも、生まれつき心が清いままであるというよりも、むしろ日々自分自身の心を掃除するような人の清潔さを表現しているのかも知れません。

2023年10月8日

聖書には、さまざまな象徴的表現が記されています。旧約聖書の箴言は、「知恵文学」と呼ばれる分類の書です。古代イスラエルにおける「知恵文学」は実生活において役立つ考え方を提供する書物でした。箴言30章24節以下では、4つの動物に見習うべきことがある、と指摘しているようです。4つの動物は、いなご以外はレビ記の食物規定では汚れた動物に分類され、いなごは食用可ですが、しばしば災厄の象徴として用いられます。ですからこれら4つの動物たちは、取るに足らないとか、汚れていると思われている人の象徴なのかも知れません。箴言では、象徴的に4つの動物を用いつつも、実際は、取るに足らないとか、汚れていると思っているあらゆる人々への偏見を捨て、あらゆる人の生き方の中には、見習うべきものがある、と教えているのかも知れません。福音宣教は旧約聖書の時代には汚れているとされた外国人たちに広がりました。すべての命は神様によって造られ、神の目に良いものとして創造されました。小さく、力ないように思える存在や、罪深い人を、神様は清めて用いてくださる方です。あらゆる命に敬意を払うなら、思いがけぬところに神様の恵みを見つけることができるはずです。