新約聖書の舞台の一つ、ガリラヤ湖は約166平方キロメートルの面積があり、琵琶湖の約4分の1の大きさとなります。この湖がある地方の秋は、夏の暑さが和らぎ、山間部との温度差が生じやすくなるため、短時間の嵐が起きやすくなるそうです。イエス様の弟子たちの中には、元ガリラヤ湖の漁師もいたので、そのあたりの事情は良く知っていたはずです。彼らは嵐が来ても短時間だから、しのげるだろうと思っていたのでしょうか。しかし、思いのほか嵐は強く、また船を出したのがすでに暗くなっていた時間だったため、弟子たちは目的地になかなか着かず、それどころか自分のいる場所もよく分からず、嵐の中で困惑し、疲れていたかも知れません。このような嵐の中の人々は、人生の苦悩に陥り困惑する人々の姿を象徴しているのかも知れません。イエス様は嵐の中を、湖の上を歩くという人間では不可能な方法で弟子たちに近づいてきました。弟子たちがこのイエス様を迎え入れた時、嵐は終わり、船は目的地に着きました。自分の力に自信を失い、努力が虚しく終わることを感じている人生の嵐の只中にイエス様は来て下さり、人生の目的を新しくして下さり、再びこぎ出す力をあたえて下さるのだと、聖書は教えているようです。
アーカイブ | 10月 2024
20241020主日礼拝
2024年10月20日
近頃はお掃除ロボットなるものが、床の掃除を自動的にしてくれるようになりました。まだまだ課題は大きいとはいえ、床が広い部屋を定期的に掃除してくれるロボットの存在は、家事の助けになっているようです。心が沈んでいると、掃除する意欲が無くなることがあるそうです。そこで掃除をしない部屋は、心が沈んでいることの象徴とも見なされます。それでも、頑張って掃除することで、逆に沈んでいた心が元気を取り戻すこともあるようです。すると片付いて清掃されている部屋にいることは、体のための衛生環境が整うだけでは無く、心も穏やかになれるのかも知れません。イエス様は人間の心、あるいは人生を家になぞらえ、悪い思い、悪い習慣などの罪深さを人の内に住む悪霊になぞらえているようです。しっかり掃除をしてホコリやチリを家から出すように、心清められて悪い思いや習慣を止めた人の心は、清掃済みの部屋のようです。しかし、空き家状態のままだと、かつて出したはずの悪霊は、より多様な仲間を引き連れて戻ってきてしまい、心と人生は以前よりも散らかって汚れた状態になってしまう、とイエス様は言っておられるようです。コリントの信徒第一6章19節では、人の心と人生全体が「聖霊が宿る神殿」であると言われています。聖霊という表現は神さまのご人格やご意思という意味でも用いられますが、人を清め続けて下さる神さまの愛の恵みという意味でも用いられます。お掃除ロボットのように、人の気付かぬ時も働き、心と人生を清めて下さる神さまの聖霊が心に住んで下さいますように、心の扉を開いてお迎えしたいものです。
2024年10月13日
ルカによる福音書8章41-56節では、二人の「娘」が登場します。一人はヤイロという人物の娘で42節では「12歳くらい」とされています。もう一人が、ヤイロの娘を癒しにいく途中で出会った女性で、43節では「12年このかた出血が止まらず」と紹介されています。この出血は女性特有の病気の一種であったと考えられているようです。文字通りにとれば、この女性は12年間病気で苦しんでいたので成人しており、ある程度の年齢であったことが想像されます。当時、出血の続く病気は「ケガレ」と見なされ、病的感染のみならず、罪深さが感染しないようにと社会から隔離されることがありました。彼女は病気だけでは無く孤独感に苦しんでいたかも知れません。この女性が癒された時、イエス様は「娘よ」と呼びかけています。父なる神さまがこの女性を決して見捨ててはおらず、愛情深い親は、いくつになっても子を慈しむ心を失わないように、神さまはこの女性をご自分の娘と思い慈しんでおられるのだということが、人々の前で宣言されました。神さまは体だけではなく、心と社会性をも癒して下さる愛の神です。
2024年10月6日
「食欲の秋」とか、「天高く馬肥ゆる秋」いう言葉があります。夏の暑さで食欲がなくなっていた人が、秋の涼しさの中で元気を取り戻し、よく食べることが出来るようになる様子を表した言葉なのだそうです。ですから、暴食を勧める言葉ではないのでしょう。小食になり、力を失っていた人を励ますための言葉であり、寒い冬に向けて力を蓄えようという備えの言葉なのかも知れません。食を断って祈りに専念することを断食と言います。ルカ福音書ではイエス様が断食した理由が明確に記されていませんが、空腹の苦しみを自ら体験し、その中でも祈りを献げ続けるお姿は、自らを満たそうとするのではなく、他者の欠けを満たそうとされる十字架に至る隣人愛の生き方の象徴のようでもあります。悪魔はイエス様に対して空腹の苦しみから逃れるために、神さまの奇跡の力を、自分の為に使えば良いと誘惑します。イエス様は食欲そのものを否定しません。しかし、自分を愛するように隣人を愛することが、神さまを信じて愛する人の生き方であるとイエス様は教えておられます。美味しいものを食べる時には、独り占めしたりせず、空腹の人々が満たされるよう、ささやかであっても分け与える心を思い起こしたいものです。