アーカイブ | 7月 2020

2020年8月2日

「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。」(Ⅰペトロ3:10-11)自分のことを一番知って下さる方は、神様です。なぜなら、神様が私たち一人一人を造られたからです。私たちの全てを知っておられ、心の奥のかくれた思いも見通されています。神様を知るとは、人間が神様によって造られたことを知ることです。造られたものは神様のものです。私たちの務めは、つくり主の神様を礼拝し、神様のみ言葉に従って生き、そのみ栄えを現わすことです。これが私たちに生きる目的です。具体的には、与えられた教会に繋がり、バプテスマを受け、聖餐に与りながら、礼拝を中心とした生活を送り、天に宝を積むことです。この地上に神様のみ国がなるようにと祈り、励むことです。神様の平和が実現するように祈り続けることです。自分の命は、神様のものです。どの命も神様のものです。イエス様をお遣わしになるほどに愛されている命です。命を大事にすることが神様のお喜びになることです。

2020年7月26日

「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1章1節)

神様は、お言葉によって、無から全てのものを創造されました。神様は、宇宙の全ての創り主です。ですから、太陽も月も星も神様にはなりません。神様を宇宙と言い換える人がいますが、宇宙も神様の被造物です。このお方が、まことの神様です。その神様は、聖書において語られ、イエス様においてご自身を現わされました。ですから、イエス様を見るとき、神様を見ることになります。神様は見ることはできませんが、イエス様を信じる信仰が与えられて、神様を見ることになるのです。「イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」と言うのか。』」(ヨハネ14:9)

使徒言行録10章にペトロが異邦人のコルネリウスにイエス様のことを伝え、聖霊が降った記事があります。ペトロは、「ナザレのイエス、この方こそ全ての主です」と彼に伝えました。それは復活されたイエス様から直接、ご自身を証しするようにと強く命じられたからでした。イエス様を信じるものは罪の赦しを受けると、私たちも証ししていきましょう。

2020年7月18日

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

イエス様こそ、神様の御子、そして神様のみ言葉そのものです。そのお方が人となられました。このイエス様によって神様が私たちと新しい救いの契約を立てられました。古い契約は、イエス様を目指していました。そしていよいよ旧約が成就して、新約がイエス様から出発していきました。ですから、旧約聖書も新約聖書も一つの神様の言葉として、イエス様を中心にして、語られています。聖書66巻が私たちの正典なのです。これは、大切な私たちの信仰です。

私たちは、律法の実行によっては、救いに与ることはできませんので、イエス様の恵みによって、イエス様を信じて受入れて、罪赦されて神の国の民とさせていただきます。旧約聖書を読みながら、聖霊のお導きをいただき、イエス様と出会い、イエス様を見いだそうとします。また、そうする心で聖書を読むように勧められています。

聖霊の神様が新旧約聖書を通し、神様と神様のみこころ、救いのみ業を示し、今も私たちにために働いてくださる神様のお働きを教えて下さるのです。

2020年7月12日

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(Ⅱペトロ1:21)聖書には、神様のみ言葉が書かれています。神様が語っておられるのです。ですから、神様は沈黙されてはいません。千年以上に渡り、たくさんの人々が聖霊を受けて、書き留めたものですが、聖霊によって書き記されたのです。まだまだ書き記せないほどの豊かで、世界も収めきれないとヨハネ福音書は最後に書いています。まず、「心得て」おかねばならないことをこのペトロの手紙は、私たちに教えています。

2020年7月5日

今週の言葉

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」(マタイ11:25-27)。イエス様は、神様を、「天地の主である父」とお呼びしています。イエス様は子なる神様ですから、そうお呼びすることができますが、私たちは本来、神様を父なる神様と呼べるようなものではありません。イエス様が、「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように…』」(マタイ6:9)とお教え下さったからです。私たちは、その教え、祈りの言葉をイエス様からいただきました。イエス様が私たちをお選びになり、お教え下さったのです。イエス様の深い憐れみ、慈しみによります。私たちは、幼子のような者です。神様なくしては生きられない存在です。それだからイエス様が神様を父とお呼びしているように、私たちもお呼びすることを赦して下さったのです。神様とイエス様との交わりがわたしたちにも与えられるためでした。