畑に種を蒔かれた種は、その種の全てが健やかに育つわけではありません。途中でダメになることもあれば、こぼれ種が豊かな実を結ぶこともあります。種には、自ら成長する命の力が備えられていて、蒔いた人の意図を超えて生きていきます。イエス様は神の国というのは、その実現を願い、働いた第一の者の意図を超えて成長するものであると教えておられます。この箇所での「神の国」という言葉は、死後の理想的世界というよりも、神さまが人と共にいて下さるという点において理想的な社会という意味です。罪や弱さのある、人間の善意による活動には、常に限界があります。努力の全てが、必ずしも良い結果となるわけではありません。しかし、畑全体としては豊かな実りを得る、収穫の時を迎えることが出来るように、神の国もまた人間の拙さにも関わらず成長し、豊かな実を結ぶものだと、イエス様は教えておられます。豊かな収穫の時が来ると信じて、神さまの愛と救いの恵みを伝える神の国の種まきをしましょう。
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2024年11月17日
秋はサツマイモの季節です。この辺りではあまり見かけませんが、昔は石焼きイモの販売車があちこちにいたものです。その代わりに近頃ではスーパーで温かい焼き芋を見かけるようになりました。芋には食物繊維が豊富だから、食べるとお通じが良くなるそうですね。快食快便は健康の秘訣です。しかし、もらしたり、トレイではないところで好き勝手糞尿をまき散らしたら迷惑ですし、そのままにしておいたら伝染病の原因にもなります。イエス様は「人の心から出るものが人を汚す(マルコ7:15など)」と言われました。様々な悪意、ねたみ、敵意などが人の心に湧き出て、それを言葉にして口に出すのは、相手を傷つけるだけではなく、あたかも汚物をまきちらすかのように、自分自身を罪深さでますます汚すことにもなると言うことです。ガラテヤ書5:24では、イエス様を信じて罪清められた人は、罪深い思いを十字架につけてしまったと表現されています。これは、イエス様を信じるようになれば絶対に悪いことを考えないというのではなく、汚物のような思いが心に湧いた時には、きちんとトイレでウンチをするように適切に処理をする、ということでしょう。イエス様が自分の罪深さを清めるために十字架についてくださったことを思い起こす時、自分のうちからもれそうな悪い思いを、神さまに対して祈りの中で告白し、きれいさっぱり洗い流していただくことが出来ます。十字架は心のトイレです。
2024年11月10日
イエス様は「ほうとう息子のたとえ」を用いて、罪を悔い改めて神の下に立ち返る人間の姿と、悔い改める前から罪を赦し、受け入れようと待ち続けている神さまの愛を示しておられます。「ほうとう息子のたとえ」は、主人公であるところの「ほうとう息子」が悔い改めて、父の家に戻ってきた後で、父の元で真面目に働き続けていたであろう兄息子の視点が語られています。兄息子は悔い改めて罪赦された弟は大歓迎されて喜ばれているのに、真面目に生きて、大きな罪を犯したわけでもない自分が喜ばれないのは不公平だと怒ります。愛情深い父親は兄息子のところに行って、彼をなだめます。弟の回心を喜ばない兄息子の心の狭さをとがめたりはしません。しかし、もしかすると当たり前すぎて忘れてしまっているかも知れないことを指摘します。兄息子は父といつも共にいる愛の関係があり、また、もはや自分の与えられた分を使い果たした弟息子とは違って、兄息子には真面目に働き続けたことで蓄えられた財産がありました。たとえ話は、兄がなだめられて終わりますが、その後の物語は聞き手が想像します。自分は兄か、弟か、そして今どのように生きていくのか、物語の続きは聞き手の人生の中で語られていくのです。
2024年11月3日
聖書には人間の死後の世界、天国がどのような場所なのかをはっきり描写している箇所はありません。しかし、ヨハネの黙示録では象徴的な意味ではありながらも、具体的な表現で天国の様子が描かれています。18-21節では、さまざまな宝石と貴金属によって作られた新しい都、天国の世界が登場します。この描写は、天国の素晴らしさを表現するためであると同時に、地上の人間にとって価値あるものも、創造主なる神さまにとっては建築材料に等しい価値である、ということなのでしょうか。天国とは、地上の富の問題で悩まされる人間の欲深さから解放された世界なのでしょう。この天国全体を光で照らしているのは太陽ではなく、小羊になぞらえられているイエスさまです。このイエスさまから出る光によって、天国全体が輝いています。もし、イエスさまがおられなくなったら、天国に光は失われてしまいます。死を打ち破り生きる、新しい、永遠の命の源であるイエスさま抜きに、天国の描写をしても空しいものとなるのでしょう。救いを求め、地上の人生を終えた全ての人の魂は、このイエスさまによって招かれ、天国の住まいに生きるものとされていると、聖書は教えています。輝かしい、宝石と貴金属による世界は、イエスさまを信じ、招かれた人々自身の姿のなぞらえなのかも知れません。天国に招かれた全ての人は、人生を通して今なお、神さまの栄光、イエス様の光を受けて輝いているのです。