アーカイブ | 1月 2025

2025年1月26日

「コヘレトの言葉」は、旧約聖書のイスラエル王国時代、最も政治的に成功したとされる伝説的な王さまであるソロモン王が書いたとされています。「コヘレト」というヘブライ語は、「集める者」という意味があります。ソロモン王は多くの人々を集めて共同体を形成し、生活と信仰の知恵である聖書の言葉を教える集団を作ったとされます。そこで「コヘレトの書」は「伝道者の書」と訳されることもあります。1章1節では「全ては空しい」という表現があることから、何事に対しても投げやりな人生観を示す虚無主義的な思想であると誤解されることがあります。しかしこの書の本質は、人間の最大限の努力や想像に勝る、神さまの絶大な恵みを伝えようとしているということです。3章1節では、あらゆることに相応しい時が神さまによって定められていると教えられます。現実に何か人間の想定を超えたことが起きたとしても、それが神さまの定めた最適な時として受けとめ、良いことも悪いことも、人生全体を通して神さまが関わっておられ、一人一人に幸いを備えておられると信じることが出来る、前向きに諦めるという生き方が示されています。

2025年1月19日

古代社会では、病気の原因は悪霊の仕業であるとされることが珍しくありませんでした。しばしば病気になった人は、それぞれの社会から隔離されて、孤独に苦しむことになりました。旧約聖書の時代、病気になった人は感染予防のために町や村から隔離されるよう定められていましたが、長い時代の変化の中で、本来の意味が見失われ、宗教的迷信として、病気の人に触れると病気がうつるばかりではなく、精神的、霊的ケガレもうつると恐れられ、病気の人は身体的な苦しみに加えて社会的、精神的な苦しみに耐えなければいけませんでした。重い皮膚病は特に目にみえる疾患症状だったので、他の病気と比べると隠しながら生活することも困難でした。しかしイエス様は重い皮膚病の方に触れて、その病を癒されました。実際の病気そのものに加えて、心も癒されたことでしょう。イエス様は癒された人に、癒やしの奇跡を誰にも言いふらさないように、そして祭司に癒されたことを証明してもらうようにと命じておられます。その理由の一つには、癒された人々が社会に復帰しやすくするために、病と差別に苦しんだ過去を不特定多数の人々に知られることで更なる差別や偏見を受けていけない、という気遣いだったのかも知れません。

2025年1月12日

新約聖書の舞台であるローマ帝国では、大変立派な舗装道路が作られており、その一部は現在でもつかわれています。しっかりと整備された道は、歩きやすくより早く移動することが出来ます。しかし、どれだけ立派な道であろうとも、目的地へ向かうのではない道をいくら進んでも、目的地に着くことはできません。現代人はスマートフォンの地図機能を使って、あちこちに行くことが出来ますが、もしそうしたなんらかの案内がなければ、誰も初めて行く場所に向かって正しく進むことはできないでしょう。聖書では道を人生になぞらえています。人生は道が枝分かれして、あちこちに伸びているように、様々な決断と選択によって方向が変わるものです。神様を信じて生きるという決断をして、天国を目指して日々清められて人生の道を進んでいるつもりでも、途中でいろいろな誘惑に出会って、本来の道を外れてしまうこともあるでしょう。迷子を見かけたら、目的地に行くための手助けをするのが親切心であり、イエス様の教えておられる隣人愛の表れでしょう。それは人生という道も同じで、罪を犯したり、誘惑を受けてふらふらと天国への道から外れてしまった人がいたら、「あんたの行く道はこっちやで」と声をかけ、時には優しく肩をどついて?方向転換させてやりなさい、と聖書は教えているようです。

2025年1月5日

昔から「一年の計は元旦にあり」と言います。ことわざを知る辞典によれば「一年のことは年の初めの元日に計画を立てて行うべきである。物事は初めが大事、しかもしっかりした計画のもと着実に行えということ。」と解説されています。もととなっている中国のことわざでは、1日の計画は「朝」に、1年の計画は「春」に行うべきである、という表現になっています。おそらく春の種まき、農業計画が念頭にある表現なのでしょう。エレミヤ書29章11節では、神さまもまた計画を立てて実行される方として紹介されています。エレミヤの時代、神の民の国は滅ぼされ、人々は遠いバビロンで捕囚の民とされます。しかし神さまは内乱や戦争によって対立するのではなく、7節では捕らえた人々と捕らえられている町に、敵に平和があるように祈れと諭しておられます。この平和の計画は、後にイエス様の、十字架の赦しの愛によって明らかになり、現れていきます。神さまの平和の計画は、私たちが思うよりもっと早く、始めから計画されており、今もなお、イエス様を信じる人々の心に蒔かれた御言葉の種と共に成長しているのです。