アーカイブ | 8月 2019

2019年8月25日

「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(ヨハネ8:51「彼は自らはライの腫物と発熱に苦しみつつも、その深い信仰によって元気なものを励まし、刻一刻と衰えていく肉体の中に内なる人の喜びが躍動していた。…日頃愛唱していた『神の恵みはいと高し』をかすれた声で歌いながら静かに召された」(青木恵哉「選ばれた島」より)。永遠の命に与った人の幸いが語られています。復活の信仰を増し加えていただきましょう。

2019年8月18日

「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救た。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10:51-52)

目が見えるようになったとは、イエス様を賛美することができるようになった、イエス様を信じさせていただき、喜んでいる自分を証することができるようになったということです。今まで見えていなかったのに見えるようになった主の御手のしるしです。賛美、証、奨励の奉仕、礼拝の全てが、目が開かれたしるしです。

2019年8月11日

「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:4)「天の国」とは、目に見える教会が具体的に現わしています。その中で誰が一番偉いのかと言う議論が起こりました。子どもは、親に全幅の信頼で安心して生きます。そのように、私たちも神様に全き信頼を置いて生きていくようにとイエス様は言われました。上昇志向、拡大志向ではなく、教会は逆の方向に向かって、一人ひとりが大切にされるようにと神様は願っておられるのです。

2019年8月4日

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)十字架の言葉とは、イエス様が人間を愛し抜かれて、十字架で死なれたということ、十字架の上で私たちの罪を赦し、祈られたこと、どうして私をお見捨てになられたのですかと天の父に叫ばれたことなど、十字架の全てのことを指します。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(23-25)」。強さの最たるものは軍事力と思いますが、それでさえも、神の弱さ、十字架の愚かさの前では無力です。十字架でこそ、神様の絶大な力が現わされるからです。復活を信じている私たちは、希望をもって平和を祈り祈り求めます。