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2026年2月8日

イエス様の語る「疲れ」は、肉体の消耗だけでなく、罪責感、失敗の後悔、人間関係の痛み、将来への不安など、心の疲労を含みます。また「重荷」は、宗教的な規則や、人から課される期待、自分で背負い込んだ完璧主義のように、人生の歩みを重くするもの全般を意味します。イエスさまは、重荷を取り去るために「頑張れ」とは言いません。「わたしのもとに来なさい」と言います。解決の出発点は努力の追加ではなく、神様との関係の回復です。「休み」は、気晴らしや一時的な休息ではなく、心に平安が与えられ、再び歩めるように整えられる“魂の安息”です。イエスさまの「くびき」を負うように勧められますが、それは重くなるというより、人生を正しい方向へ導くための優しい導きです。自分一人で背負っていた荷を共に担ってもらい、イエス様の導きで歩むとき、人は気休めではない、本当の軽さを知ります。この言葉は、人の弱さを責めるのではなく、弱さのまま来てよいと告げる神様の愛の招きであり、迷いの中でも神様によって平安が与えられる場所が備えられていることを教えています。

2026年2月1日

「向上に心がけなさい」と訳されているギリシア語「オイコドメオー」は「建てる」という意味の言葉です。神様を信じて生きることは、すごい人が一人いてみんなをなんとかしてもらう、というのではなく、みんなで家を建てるように助け合うということです。誰かが弱っていたら支柱のように支え、迷っていたら一緒に考え、うまくいったら一緒に喜ぶのです。もし失敗したら責めるより学びに変えることが出来ます。そうやって、一人ひとりが少しずつ強くされ、集う人たち全体も安定していきます。11節では、やさしい背中押しがあります。「あなたがたはすでにそれをしている。だから、これからも続けてね」ということです。完璧になれと言っているのではなく、今ある小さな善意や支え合いをやめてはいけないよ、と教えています。神様を信じて生きたいと思う心は、ひとりぼっちで寂しいと小さくなって消えてしまうかも知れません。でも、互いに励ます言葉と行動があると保たれ、成長していくのです。神様の愛に満ちた建徳的な言葉と行動によって、互いに励まし成長して行きましょう。

2026年1月25日

このたとえ話の主人は神様に重ね合わせられています。主人は「不公平だ」という訴えに対して、約束と好意を分けています。主人は、朝から働いた人と約束した分を約束通り支払っています。全ての人に同じ額を払うのは正義というより、神様の自由なあわれみ、恵みなのです。このたとえ話は、神さまの国や神の恵みを教えています。人間は、努力した、頑張った時間、早く始めたかどうか、で価値を測り、報酬もそれに比例すべきだと思いがちです。もちろん、社会の仕組みとしてはそれが必要になるでしょう。しかし神さまが人を受け入れ、救い、祝福を与えるやり方は成績順や先着順だけで配られるものではない、ということが示されています。14節は、とくに比べる心への注意にもなっています。主人の言葉は、「あなたはすでに受け取っているのに、なぜ他人の恵みを見て心が苦しくなるのか」と問いかけています。神さまの恵みは、私たちが思う公平さを超えて、必要な人を包み、比べる心をほどき、感謝と喜びへ導いてくださるのです。

2026年1月18日

テトスは彼の故郷であった、ギリシアのクレタ島の牧師として任命され、島の人々にイエス様の救いの恵みを伝える働きをしていました。1章5節によれば、この手紙はテトスがクレタ島で牧師をしていた時に送られたもののようです。この手紙では全体的に、イエス様を信じる人々が、他の人々の評判を気にかけ、善い働きをすることを勧めています。その理由の一つには、1章12節にあるように、当時の地中海世界では「クレタ人」の評判が悪かったから、かも知れません。実際には悪い人ではなくても、荒っぽい口調の人が比較的多かったのかも知れません。3章1-2節では、国や町の決まり事を守り、他の人に対してけんか腰にならないで、どんな人にも優しくあるようにと教えています。人を見下すのではなく、「自分も助けが必要だった」と思い起こす時、赦しの愛と寛容の祈りをもって他者と関わることが出来る、イエス様の救いの実を結ぶことが出来るのだと教えられているようです。

2026年1月11日

信仰を持つと、周りの理解が得られないことや、続けるほど地味に消耗することが起こります。それでも真面目に、誠実に生きている人をイエスさまは「ちゃんと見ているよ」と受け止めてくださいます。がんばりが空振りだったわけじゃない、という安心を与えて下さいます。信仰の歩みの中で、正しさを守ること、奉仕を続けること、粘り強く耐えることはとても尊いことです。ただ、その一方で、気づかないうちに“愛の温度”が下がることがあります。やるべきことは増え、間違えないように気を配り、責任感で動けるようになる。でも、最初にあった素直な喜び、感謝、神への親しさ、人へのあたたかさが薄れていくこともあります。「初めの愛」は、イエスご自身への愛とも、仲間や隣人への愛とも受け取れます。家族や親しい人との関係でも、用事はこなすけれど会話が減り、気遣いが形式になってしまう、ということがあるでしょうか。頑張る人ほど、神様の愛と共にある信仰生活を、忘れないようにしよう、と聖書は教えています。

2025年12月21日

マタイによる福音書2章1-11節に記されているイエス様のお誕生の出来事、主人公は東の方から来た人々です。彼らは東の方で不思議な星を見たというので、はるか遠くのベツレヘムまでやってきました。しかし、彼らがなぜ、不思議な星によって示された「ユダヤの王を拝みに来た」のか、その理由については記されていません。ペルシアのあたりで社会的地位は高かった占星術の博士たちが、治安の悪い地域を長旅してまで会いに来たのは、何か心に満たされないものがあったり、言葉で表現しきれない苦しみからの救いを求めていたのかも知れません。彼らは旅の目的地がはっきりしないまま旅に出て、尋ねて探し、星に導かれてイエス様へとたどり着きます。そしてまだイエス様がどのような救いをもたらされる方であるのかは、はっきりとは解らないけれども、未来への救いの希望を抱いて喜びました。このクリスマスの旅は、人がイエス様へと導かれる人生の象徴でもあります。夜空に輝くものばかりではなく、人の悩みの闇の中に、イエス様の救いの希望へと導く星は、全ての人々の上に今も輝いています。

2025年12月14日

本日はイエス様のお誕生をお祝いするクリスマスの待ち望む期間、アドベントの第三日曜日です。アドベントキャンドルの三本目のろうそくは、「喜び」を象徴するともしびです。手紙の著者パウロは順境の中で語っているのではなく、囚われの身として教会に手紙を書いています。この喜びは気分の高揚や「楽しいことが起きたから」の反応ではなく、神さまが共におられることを信じる時に思い起こすことが出来る喜びです。だから状況が揺れても、喜びは消えません。続く5節で「主は近い」と語られるように、イエス様がこられるというのは未来の出来事であると同時に、今ここへと近づき続けています。この喜びは内面の感情に閉じず、優しさやゆるしとして外へにじみ出て行きます。アドベントは整えられる季節でもあります。悔い改めは暗い自己否定ではなく、イエス様の救いがすでに始まっていることへの希望の応答です。悔い改めと喜びは対立せず、同じ救いの恵みです。待ち望む者の喜びは、問題が消える前に与えられる平安を伴います。私たちは出来事の成否ではなく、来てくださるキリストの確かさに支えられて、今日を静かに喜ぶのです。

2025年12月7日

アドベントキャンドルの二本目は「平和」を象徴する灯火です。聖書で「平和」と訳される言葉「シャローム」は、戦争などの大きな争いに対する平和という意味だけではなく、人の心の「平安」という意味を含むある包括的な概念です。状況が好転したら得られる安心、問題が解決したら戻ってくる平穏、人間関係や環境がととのった時の安堵のような「世の平和」は好ましいものです。しかしイエス様が与えて下さる平和は、状況が揺れても、先が見えなくても、損失や痛みがあっても、心を騒がせるような時こそ、心の深い場所が支えられる、どんな時も与えられる平安です。イエス様がお生まれになられる次第、そしてイエス様がお生まれになられた世界は、穏やかならざるところでした。クリスマスの主であるイエス様は、揺れ動く不安定な世の中に生きる人々のところに来て下さり、苦難の中に生きるすべての人々を励まし、揺らぐことのない確かな救いの約束によって、この世の平和を超える喜びに満ちた平和を与えて下さる方です。

2025年11月30日

「株」と訳されたヘブライ語「ゲザ」は、木の幹や木の根元、という意味です。しかし、直前の10章34節では、高慢の罪に陥った神の民イスラエルが、切り倒される木々になぞらえられ、滅びの宣告を受けています。そこで11章1節ではすでに「切り株」となり、一度死んだ状態となった神の民が新しい命を神さまからいただいて復活するという赦しと恵みの預言として表現されています。切り株から出てくる若枝を「ひこばえ」と呼ぶことがあります。漢字だと「孫生え」と当てるようです。ヘブライ語にはこのような意味はないはずですが、不思議と、エッサイの子孫としてのイエス様という意味と重なります。このひこばえは、イエス様のことであると同時に、イエス様を信じて共に生きる人々が新しく命をいただいて生きる姿の象徴でもあります。小さなひこばえが巨木となるように、イエス様のお誕生は小さく始まり、世界中に枝を伸ばすクリスマスツリーのような大きな恵みです。

2025年11月23日

このたとえ話では、神の国が、小さな始まりから、やがて驚くほど大きく成長する、という逆転の論理を示しています。からし種は当時の人々にとって「最も小さいもの」の代名詞でした。イエスさまの活動も、ガリラヤの片隅で始まった小さな集団でした。しかし、その小さな始まりの中に、神さまの力と約束が秘められています。私たちが日々の中で行う、ごくささやかな祈りや隣人への愛の行為が小さく見えても、神さまの視点からはからし種のように尊く、やがて思いがけない実を結ぶ可能性を持っています。空の鳥が来て枝に宿る、というイメージは、神様を信じるいろいろな人が身を寄せる場所のなぞらえです。神さまのおられる場所は多くの人に憩いと安全をもたらす包容力のある場所です。目に見える成功がないときでも、信仰と愛に根ざした小さな選択を続けるとき、その中で静かに神の国は育っているのだとイエス様は教えておられます。