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2024年4月28日

創世記11章に記されている「バベルの塔」の出来事では、世界中の人々が一つの場所に集まって共に生きることが出来た状態についての物語です。16世紀オランダの画家、ピーター・ブリューゲルの描いた1563年版の「バベルの塔」では、崩壊したバベルの塔の左手前に、武装兵に護衛されたニムロド王の前で、ひれ伏すしもべたちの姿が描かれています。「天まで届く塔を建てよ」という無茶な命令を実行しようとした人々をとがめようとする、理不尽な王の姿は、社会の身分制度や立場の強弱によって、人々の協力関係が崩壊していく様子を象徴しているのかも知れません。バベルの塔の出来事では、言語が同じで、同じ場所に住んでいても、人々が互いに失望し離れていきます。新約聖書の時代は、人々は様々な言葉を話しながらも、広い地域に生きる時代でした。コリントという町は大きな貿易都市であり、様々な人々がいたでしょう。しかし、イエス様を信じる信仰を通して、立場や身分の違いにこだわらず、一人一人の弱さを互いに助け合う信仰共同体であり地域共同体としてのキリスト教会が生み出され成長していきました。神さまの愛と互いを愛する隣人愛に満ちる塔として、地上のキリスト教会が生み出され続け、成長することが出来ますように。

2024年4月21日

イエス様が復活された時、イエス様を信じて慕っていた弟子たちはすぐにそのことを信じることが出来ませんでした。ルカによる福音書では、エルサレムがイエス様の活動の中心地として強調されており、エルサレムで起きたイエス様の十字架の出来事から、世界中に救いの恵みが広がっていったことが示されています。ルカによる福音書24章13節以下に記されている、エルサレムから離れてエマオという街へと向かう二人の弟子の出来事は、神様の救いの恵みから離れていく人の心を象徴しているのかも知れません。17節「暗い顔」と訳されたギリシア語「スコスローポス」は「悲しみ、憂鬱」という意味があります。心を暗くしている思いは、神様の恵みの言葉を語り伝える存在を通して光が当てられ、変えられていきます。そして彼らの心に希望の火が燃えあがった時、復活と新しい命の恵みに生きておられるイエス様が、今自分たちと共にいて下さったことを信じて、元気を取り戻しました。そして、未だに暗い思いの中にいる人々を励ますために、再びエルサレムに戻っていったのです。ろうそくの火が、別のろうそくに火を与えるように、暗く冷たさに苦しむ人の心に光を与え暖める燃える心を、イエス様は御言葉を信じる人を通してあたえて下さるのです。

2024年4月14日

聖書における神殿は、罪の赦し、救い、清め、日々の感謝を神さまに祈り献げるための礼拝所であり、神さまを求める人が信仰を通して神さまと出会う場所でもありました。古代社会における戦争では、敵国の大事にしている象徴的な建築物を破壊することが一般的でしたので、エルサレムにあった神殿も破壊され、再建されています。しかしイエス様は目に見える物質としての神殿はあくまで象徴に過ぎず、信仰の実態は神さまを信じる人の心にあり、信じて生きる人の存在そのものが神の神殿なのだと教えておられます(ヨハネ福音書2章19-21節など)。コリントの信徒への手紙第一6章19節では、信じる人の存在そのものが神の神殿であるのだから、汚らわしい罪に気付いているなら、悔い改めて清めていただき、神さまと人が出会うに相応しい場所を整えるように、人生を整える必要があると教えています。自分自身のためだけではありません。家族や友人たち、隣人たちもまた、神の神殿である、信じる人を通して神さまと出会い、救いへと導かれるのです。

2024年4月7日

イエス様の十二弟子は皆男性でしたが、復活されたイエス様に真っ先に出会ったのは女性たちでした。マリアという女性名はヘブライ語の「ミリアム(マリアム)」の変化形です。意味は諸説ありますが、「苦い海」「強い水」「希望の子」「美しいもの」といった意味があったと考えられているようです。ミリアム=マリアという名前で最も活躍した人物の一人が、出エジプト記に登場するモーセの姉の女預言者ミリアムです。彼女は、力強く苦難に耐え忍びつつ希望を抱く女性です。人気のある名前だったので、イエス様のお母さんもマリアで、イエス様の弟子となった女性たちにもマグダラのマリア、ベタニアのマリアなど、何人ものマリアさんがいました。マルコ福音書によれば、彼女らはイエス様の復活の出来事を受け容れられず恐怖します。しかし、他の福音書では彼女たちがイエス様の復活を先ず伝えた人々として描かれます。マリアたちの働きを通して、信仰の強さとは生来の性格的強さではなく、疑いや苦難の只中でも、自分の信じることを信じ語り続けることが出来る、弱さを乗り越える力なのだと教えられているのかも知れません。

2024年3月31日

イエス様の復活を記念する復活祭(イースター)では、新しい命の象徴として卵がよく使われます。固い殻を破って生まれるひよこは、死を打ち破りよみがえられたイエスさまと重ね合わせられるのでしょうか。しかし、現在の食用卵の多くは、無精卵であってひよこは生まれません。現代人にとっての卵は、栄養豊かで、日々の命が神さまから与えられることの象徴として美味しく食べることに意味が見いだされるかも知れません。生きるためには何かを食べないではいられません。イエス様はガリラヤ湖周辺の文化で生活しておられ、またパレスチナ地方は西側が地中海に面していることから、よく魚を食べていたのでしょう。復活されたあと、生きていることの象徴的行為として、その場にいた人々と同じ食べ物である焼き魚を召し上がりました。食事という仲良く命を分け合う隣人愛の場に、生きておられるイエス様は共におられるのです。

2024年3月24日

まじめに仕事に向き合える方ほど、社会に貢献することに真剣です。そして、誰にも上手く行くことがあれば、簡単な仕事でつまずく時があります。しかし、責任感が強く、社会貢献を仕事にする方ほど、 仕事につまずいた時に自分を責めてしまいます。誰にでも起きることです。(コミュニケーショントレーナー協会HPより)イエス様の弟子たちは、3年間イエス様と共に神さまのご用のために働き、自信もついていたのでしょう。しかし、イエス様が十字架で死なれることになると動揺し、裏切りました。そして自信を喪失したのです。イエス様は人の弱さをご存じでした。しかし人の強さも信じておられます。必ず回復することが出来るから、その時は他の人たちを力づけてあげなさい、と新たな働きを与えておられます。神さまは自信喪失した人をよみがえらせ、同じ苦しみを持つ人々をも復活させる働きへと導かれる方です。

2024年3月17日

春になると様々な花が咲きます。鮮やかな草花の色で賑わう様子は、命の力を感じる光景です。しかし、力強く生きる草花も季節が過ぎれば枯れてしまいます。旧約聖書のイザヤ書40章6-8節は、草花の姿を、人の人生になぞらえています。ペトロの手紙第一1章24-25節では、その箇所を引用しつつ、神さまの言葉は朽ちることのない、永遠に咲く花のような存在であると言っているようです。ペトロの手紙は、この朽ちることのない永遠の花、神さまの言葉は、イエス様を通して示され、教えられている救いの恵み、新しい命の恵みであるのだと言っています。イエス様は十字架で死なれた後復活されましたが、その後に天に戻られてしまいました。しかし、イエス様のお言葉は弟子たちを通して現在に至るまで、人の心を癒し、慰め、支える力があります。人の死を超えて、なお生きる神の言葉、イエス様の救いの恵みは、人の心に永遠に咲き続ける花です。

2024年3月10日

共感力とは、他者の考えや意見にその通りだと感じたり、喜怒哀楽といった感情に寄り添うことができる力のことであり、他者と信頼関係を築いたり、良好なコミュニケーションをとるうえで非常に重要な力です(グロービス経営大学院HPより)。ビジネスの世界だけではなく、日常生活でも共感力は大事なものです。しかし、現実には共感出来ないこと、共感してもらえないこともあるでしょう。無関心な他人に解ってもらえないのはともかく、友人や恋人、家族に理解されないことは、つらいことかも知れません。イエス様は争いがあっても、暴力を用いない平和を求めておられましたが、弟子たちはいざというときには、敵を殺傷するもやむなしと考えていたようです。イエス様の「それでよい」という言葉は、弟子の無理解に対する諦めの表現です。しかし同時に、いつか解ってくれると信頼して、期待して待つ忍耐の愛が示されているようです。

2024年3月3日

3月は引っ越しの季節です。自分の荷物をまとめる時、必要なものと不要なものを改めて仕分ける機会にもなるでしょう。「断捨離(だんしゃり)」という言葉は、やましたひでこさんが著書「新・片付け術」の副題としてから、広く日本中に知られるようになりました。この言葉はもともとやましたさんが親しんでいたヨーガの思想から来ているそうです。「離(り)」というのは、モノへの執着から離れるという、心の在りようを変えるという意味なのだそうです。モノを片付けるという実践も大事ですが、物欲、所有欲、独占欲から解放されることの重要性については、諸宗教の教えでも共通しています。ペトロの手紙第一2章11節では、人生を旅になぞらえています。旅や引っ越しに余計なものを持っていけばそれだけ移動が遅く、大変になるものです。所有欲を完全になくす必要はなくても、本当に自分の人生に必要なものは何かを考えることは大切なことです。十字架の恵みにより罪深い欲望から自由になる時、人生の旅は軽やかに楽しくなるでしょう。

2024年2月25日

聖書の舞台であるパレスチナ地方は、乾季と雨季という二つの季節があります。乾季はまったく雨が降らないので、雨雲が登場するのは晩秋から初春にかけての雨期になります。霧が出るのは、ある程度気温が暖かになった初春です。聖書では闇は人の心の罪深さや悩み、深い悲しみの状態の象徴的表現としても用いられますが、詩編18章10-12節では、生き物に命の力を与える、水をもたらす存在として用いられています。詩編18編は古代イスラエルの英雄ダビデが、彼の命を脅かす敵の手から逃れ、あるいは撃退した時に歌った歌とされています。彼は快適な都市生活、名誉ある立場から追いやられ、荒野の洞窟で長いこと身を隠し、敵国に亡命することになりました。突然の災難は未来への希望を見失わせたかも知れません。しかしこの災難によって彼は優れた活躍へと導かれて行きます。神さまは苦難の闇を、人に新しい命を与えるための、春の雨雲や霧として用いて下さる方です。