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2026年3月29日

「新しく造られた者」とは、見た目が変わるということではありません。心の向きや生き方が、神さまによって新しくされていく、という意味です。人は誰でも失敗したこと、後悔していること、だれにも言えない傷や罪を持っています。しかし聖書は、キリストによって新しくされた人は、過去にしばられたままで終わらず、変わることが出来ると教えています。「古いものは過ぎ去った」とは、罪に支配されていた生き方、自分中心の考え、恐れや絶望にとらわれていた心が、キリストによって変えられていくことです。すぐに全部が完全になるわけではありません。しかし昨日までの自分と同じように見えても、神さまの前ではもう新しい者として歩み始め変わり始めているのです。自分の力だけで新しくなるのではなく、キリストに結ばれて生きるとき、神さまが与えてくださる新しい恵みに目を向けて歩むことができます。そこに、信仰の大きな希望があります。

2026年3月22日

エゼキエルは谷が骨だらけになっている幻を見ます。この幻の骨たちは、生きているのに生きる希望を持つことが出来なくなっている人々の象徴です。 しかし神さまはエゼキエルを通して、骨たちに向かって「主の言葉を聞け」と言われます。希望が失われており、もはや回復の余地が見当たらない、終わりをむかえた枯れた骨のような人であっても、神さまは復活の希望によって、新しい命を与えて下さいます。人間の目には遅すぎる、無駄、手遅れだと思われても、神様は枯れた骨すら復活させて下さるという希望は、聞くものと語るもの両方に対する励ましです。自分の力で生き返るのではなく、まず「主の言葉を聞け」と神さまは呼びかけておられます。熱心な信仰があるから生き返るのではなく、神様の言葉を通してだんだんと新しい命が組み上がり、ついに神様を信じる心が形作られます。神様は、神様を知らず、信じる心を持てず、希望なき枯れた骨のような人を愛によって新しい命へと招き、人の望みなきところに神様の希望を伝えようとする人を励まして下さる方です。

2026年3月15日

人はだれでも、これからのこと、体のこと、家族のこと、生活のことなど、いろいろな心配をかかえます。そうした重い気持ちを、自分ひとりで持ち続けなくてよい、と聖書は教えています。なによりも神さまが私たちのことを心にかけておられるからです。神さまは私たちの苦しみも不安も知っていて、受け止めてくださる方です。だから、苦しいときには、祈りの中で正直に神さまに打ち明けてよいのです。けれども、ただ安心するだけで終わりではありません。「身を慎み、目を覚ましていなさい」と言われています。心が弱っているとき、人は誘惑に負けやすくなり、神さまから心が離れやすくなります。そこで聖書は、落ち着いて、自分の心を守り、信仰にしっかり立つように勧めます。悲しみや不安、疑いや恐れを通して、信仰がくずされそうになることもあるでしょう。そのようなときにも、神さまに信頼して立ち続けなさい、と聖書は励ましています。聖書は心配を神さまにゆだね、心の目を覚まして歩み、信仰に堅く立つようにと、やさしく、しかし力強く教えています。

2026年3月8日

イエスさまは十字架の苦しみを、ただの悲しい出来事としてではなく、私たち人間を救うために必要な手段として受け入れてくださいました。けれども、イエスさまは、「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。イエスさまは、深く心を痛められたのです。人間が苦しみの中で心を騒がせる時、イエスさまはその思いをよく分かってくださいます。しかしイエスさまは、十字架の苦しみから逃げず「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言われました。イエスさまは、父なる神さまのみこころに従い、十字架へ進まれたのです。十字架は、一見すると敗北のように見えます。けれど聖書は、そこに神さまの大きな愛があると教えます。罪赦され、神さまのもとに帰る道が開かれたのです。イエスさまの「この時のために来た」ということばには、私たちを救いたいという強い愛が込められています。心が騒ぐ時にも、十字架の救い主は私たちを見捨てません。私たちのために苦しみを通られた主だからこそ、弱い私たちを支え、救いへと導いてくださるのです。

2026年3月1日

人は誰でも、「認められたい」「大切に扱われたい」という願いを持っています。この願いは、何事かを一生懸命頑張る力にもなります。しかし同時に、評価や立場をめぐって疲れさせ、自分や相手を傷付けてしまうこともあります。そんな人々に対してイエスさまは「仕えられるのではなく仕える」生き方が大切だと教えておられます。イエス様の言う「仕える」とは、「相手のために自分を用いる」生き方です。自分が中心になって人を動かすのではなく、目の前の人が生きやすくなるように動き、強さを誇らず弱さに寄り添うということです。力ではなく、愛で人を支える生き方です。恐れ、自己否定、恨み、見栄、やめたいのにやめられない習慣などから解放するため、イエス様は力づくではなく、自分の命を差し出すほどの愛によって解こうとしました。イエス様は「自分が満たされてから与える」ではなく、「与えることで人を自由にする」生き方を示されました。イエス様と共に一歩踏み出すとき、争いの不安から自由となり、自ずと認め合うことが出来る喜びを見いだすことが出来るのではないでしょうか。

2026年2月22日

人は、自分の努力、善行、財産、立派さによって誰かに受け入れられようとしがちです。しかしイエス様は、人が罪と呼ばれる自己中心的な生き方から、神様の愛によって隣人を愛する生き方へと変えられる救いの恵みをいただき、神の国に入れていただけるのは、人間の力によらず、ただ神様の恵みによって与えられるものであると教えておられます。神様は人には出来ない、罪の心を変え、執着を手放させ、神様の愛に生きる新しい命を与えて下さいます。自分の弱さ、失敗、不信仰に悩む時こそ、救いは神様の恵みとして与えられていると聖書は励まします。自分自身だけではなく、他人の罪深さを見た時に、この人は変わらないと思えたとしても、神様は変えて下さると希望を持って委ねることが出来ます。だから上手くいかない相手の関係をあきらめず、祈り続け、愛をもって隣人と共に生きることが出来るようになるのです。自分の力で自分の望み通りに人を変えようとしている時、自分中心の心から、神様中心の恵み深い平安と希望の心に変えられますように。

2026年2月8日

イエス様の語る「疲れ」は、肉体の消耗だけでなく、罪責感、失敗の後悔、人間関係の痛み、将来への不安など、心の疲労を含みます。また「重荷」は、宗教的な規則や、人から課される期待、自分で背負い込んだ完璧主義のように、人生の歩みを重くするもの全般を意味します。イエスさまは、重荷を取り去るために「頑張れ」とは言いません。「わたしのもとに来なさい」と言います。解決の出発点は努力の追加ではなく、神様との関係の回復です。「休み」は、気晴らしや一時的な休息ではなく、心に平安が与えられ、再び歩めるように整えられる“魂の安息”です。イエスさまの「くびき」を負うように勧められますが、それは重くなるというより、人生を正しい方向へ導くための優しい導きです。自分一人で背負っていた荷を共に担ってもらい、イエス様の導きで歩むとき、人は気休めではない、本当の軽さを知ります。この言葉は、人の弱さを責めるのではなく、弱さのまま来てよいと告げる神様の愛の招きであり、迷いの中でも神様によって平安が与えられる場所が備えられていることを教えています。

2026年2月1日

「向上に心がけなさい」と訳されているギリシア語「オイコドメオー」は「建てる」という意味の言葉です。神様を信じて生きることは、すごい人が一人いてみんなをなんとかしてもらう、というのではなく、みんなで家を建てるように助け合うということです。誰かが弱っていたら支柱のように支え、迷っていたら一緒に考え、うまくいったら一緒に喜ぶのです。もし失敗したら責めるより学びに変えることが出来ます。そうやって、一人ひとりが少しずつ強くされ、集う人たち全体も安定していきます。11節では、やさしい背中押しがあります。「あなたがたはすでにそれをしている。だから、これからも続けてね」ということです。完璧になれと言っているのではなく、今ある小さな善意や支え合いをやめてはいけないよ、と教えています。神様を信じて生きたいと思う心は、ひとりぼっちで寂しいと小さくなって消えてしまうかも知れません。でも、互いに励ます言葉と行動があると保たれ、成長していくのです。神様の愛に満ちた建徳的な言葉と行動によって、互いに励まし成長して行きましょう。

2026年1月25日

このたとえ話の主人は神様に重ね合わせられています。主人は「不公平だ」という訴えに対して、約束と好意を分けています。主人は、朝から働いた人と約束した分を約束通り支払っています。全ての人に同じ額を払うのは正義というより、神様の自由なあわれみ、恵みなのです。このたとえ話は、神さまの国や神の恵みを教えています。人間は、努力した、頑張った時間、早く始めたかどうか、で価値を測り、報酬もそれに比例すべきだと思いがちです。もちろん、社会の仕組みとしてはそれが必要になるでしょう。しかし神さまが人を受け入れ、救い、祝福を与えるやり方は成績順や先着順だけで配られるものではない、ということが示されています。14節は、とくに比べる心への注意にもなっています。主人の言葉は、「あなたはすでに受け取っているのに、なぜ他人の恵みを見て心が苦しくなるのか」と問いかけています。神さまの恵みは、私たちが思う公平さを超えて、必要な人を包み、比べる心をほどき、感謝と喜びへ導いてくださるのです。

2026年1月18日

テトスは彼の故郷であった、ギリシアのクレタ島の牧師として任命され、島の人々にイエス様の救いの恵みを伝える働きをしていました。1章5節によれば、この手紙はテトスがクレタ島で牧師をしていた時に送られたもののようです。この手紙では全体的に、イエス様を信じる人々が、他の人々の評判を気にかけ、善い働きをすることを勧めています。その理由の一つには、1章12節にあるように、当時の地中海世界では「クレタ人」の評判が悪かったから、かも知れません。実際には悪い人ではなくても、荒っぽい口調の人が比較的多かったのかも知れません。3章1-2節では、国や町の決まり事を守り、他の人に対してけんか腰にならないで、どんな人にも優しくあるようにと教えています。人を見下すのではなく、「自分も助けが必要だった」と思い起こす時、赦しの愛と寛容の祈りをもって他者と関わることが出来る、イエス様の救いの実を結ぶことが出来るのだと教えられているようです。