アーカイブ | 7月 2023

2023年7月30日

イエス様は神の国という理想的世界を、畑で育つ植物になぞらえておられます。「知らない」という表現は、時間的なことと仕組みの両方を理解出来ない、と言う意味で使われているようです。しかしいつ、どのようにして植物が種から芽を出すのか知らなくても、蒔かれた種はその内に備えられた力によって成長をし続け大きくなります。畑に種を蒔く人からすれば、植物を育てるのはなんらかの実を求めてのことです。ですから収穫は待ち遠しく、楽しみなことでしょう。しかし、畑の実りは種を蒔いてすぐに収穫出来るものではありません。成長には段階があり、植物本体が十分に成長した結果として実が現れます。人間にとっての理想的世界である神の国も同じように、始めは小さなものであり、いつ芽が出るのか解らなくても、必ず成長し、豊かな実を結ぶでしょう。しかし、それには段階があり、人間が求める時に、すぐに現れる訳ではありません。しかし、必ず実を結ぶと信じて手入れするから、実りは豊かになります。水を注がず手入れせねば、枯れてしまうでしょう。すぐに実らぬからと種を蒔かねばいつまでも成長は始まりません。神の国も同じように、一人一人が神さまの言葉を信じて生きる、小さな営みから始まって大きく成長するのです。だから、神さまの言葉を信じて生きる人々のところには、すでに神の国は始まり、その成長は遅く見えても、確かに成長し、時が至れば豊かな実を結ぶのです。まだ見ぬ実りを信じて、日々神さまの言葉を信じる種を蒔き続けましょう。

2023年7月23日

聖書における「霊」という言葉は、目に見えないものを表す包括的概念です。「霊」には人の「霊」とか「良い霊」「悪い霊」などの種類があり、人の心や精神という意味でも用いられます。しかしローマ書8章26節では、「神さまの霊」が私たち人間を助けて下さる、と言っているようです。人は言語化することで、考えていること、感じていることを相手に伝えたり、自分自身で確認したりすることができます。しかし、思いがまとまりきれていなくて、言語化されていない事柄もあるでしょう。そうしたなんと言って良いかわからない人の心の思いを、神さまはご理解下さり、人が自覚的に助けを求める前から、必要な助けを備えていて下さるのだ、と聖書は教えているようです。神さまは、人の心の言葉ならぬ言葉をも理解して下さる方なのですが、直接知るばかりではなく、「神の霊」という仲介者を通して事情を知って下さるようです。聖書の世界の「仲介者」たちの代表は、手紙を届ける人たちです。彼らは手紙を届け、物事を正確に伝えるだけではなく、外国語で書かれている文書であれば相手に理解出来るように翻訳したり、表現の意味するとこを著者の意図を解釈して伝えたりする、メッセンジャーでした。「神の霊」は人間の側に立って、人間の思いを神さまに受け入れていただけるように、語り直して下さる存在であるようです。だから、誰にも自分の思いが解ってもらえない、という孤独に苦しむとき、言葉が整わなくて、こんな自分勝手なことをお祈りしても良いものか、と心配しずぎずに、なんでも神さまにお祈りして良いのだ、安心しなさい、と聖書は私たちを励ましているのではないでしょうか。

2023年7月16日

マタイによる福音書22章37-40節でイエス様は、「神を愛し、隣人を自分のように愛すること」が聖書の中心点であると教えておられます。「基づいている」と訳されているギリシア語「クレマヌーミ」は、「ぶらさがる」という意味です。木に実がぶらさがっている、とか扉が蝶番でつながっている、という意味で使われます。もし木がなければ実は実りませんし、蝶番がなければ扉は倒れた板になってしまいます。聖書には、神さまからの言葉が記され、様々なことが教えられ、人生の道しるべが示されています。しかし、もし神を愛し、隣人を愛することが欠けてしまえば、全ての教えは無駄となり、何の実も結ばなくなる、とイエス様は言っておられるようです。宣教者パウロは、諸教会に対して多くの手紙を送って助言をし、また多くの地域でイエス様の教えを伝えて、多くの教会を創設しました。パウロは素晴らしいメッセンジャーであり、たくさんの人々を励まし、神さまの救いの恵みに導きました。しかし、もしイエス様の言われる愛に欠けてしまえば、どれだけ立派な話をしても、相手にとっては騒音と変わらなくなる、と言っています。日頃からの挨拶などの言葉かけ、日常の信頼関係を築く隣人愛の実践があるからこそ、神の愛が人の心に受け入れられるのだと、聖書は教えているようです。

2023年7月9日

新約聖書の時代、民族主義的なユダヤ人たちは、サマリア人を差別していました。しかしイエス様は、神さまの恵みを伝える旅の途中、サマリアの町に立ち寄られました。神さまの恵みはユダヤ人だけではなく、あまねく全ての人々に注がれているからです。差別されている人々の心は、差別している人より綺麗だとは限りません。サマリア人たちの中でも差別はありました。イエス様が井戸で出会った女性は、複雑な人間関係を経ていたようです。おそらくそれが理由で、この女性は町の人々との人間関係が破綻していました。人にあわない時間に井戸に水を汲みに来ています。イエス様が水を求めたとき、この女性は遠回しに断ります。しかし、イエス様は見知らぬ旅人に、それも敵対しているユダヤ人に一杯の水を分け与える道を示されます。人間関係の断絶の終わりは、差別する相手の変化を期待するのではなく、自ら隣人愛の実践を行うことから始まるのです。イエス様を信じたこの女性は、それまで会うことを避けていた町の人々に、神さまの恵みを伝えてまわるようになりました。彼女が喜んで人々にイエス様から受けた言葉を伝える姿を通して、町の人々もイエス様を信じました。心の渇きを潤す源泉は彼女の心から溢れ、人々の渇きを潤しました。

2023年7月2日

いちじくは、世界最古の栽培果樹であったとも考えられており、古くから世界中で食べられてきました。栄養素も多く含まれ、日本には江戸時代初期に薬用として入ってきたようです。砂糖が精製される前の古代社会では、貴重な甘味の一種でもありました。新約聖書の舞台であるパレスチナ地域では、夏は雨が降らず、水不足になりがちな乾期です。実の85%が水分である、いちじくは、喉を潤すためにも食されたことでしょう。イエス様と弟子たちが宣教旅行をしていた時、お腹が空いたイエス様はおそらく自生している、いちじくの木を見つけて、実がなっていることを期待して近寄ります。しかし、残念ながら季節外れのために熟果はなかったようです。季節外れなのだから仕方ないように思えますが、イエス様はいじちくの木に呪いの言葉をかけます。すると数日後、いちじくの木は枯れてしまいます。なんとも理不尽な物語のようです。しかし、いちじくやぶどう、オリーブなどの果物は、神の民、ユダヤ、エルサレム、神殿などの象徴でもあります。人々から献金を集めて、そのお金で豊かな生活を得ながら、貧しい人々を助けることをおろそかにしている神殿組織を、葉を豊かに茂らせながら実をならせない果樹になぞらえているのかも知れません。しかし、夏に備えて葉を繁らせるいちじくの木は、実を結ぶ備えある状態でもあります。 時が来れば豊かに実を結び、生き物に潤いを与え、生活を助けることが出来るように、力あるからこそ誰かを助けることが出来ます。その時が今来ているのだと、イエス様はいちじくの木を通して、私たちに示しておられるのかも知れません。