アーカイブ | 6月 2021

2021年6月27日

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)。地の果てとは、どこでしょうか。それは、イエス様が今働いておられるところです。貧しくされた人々、助けをもめている人々、弱くされている人々のところでイエス様は働いておられます。弟子たちは、主のあかし人としてこの世に遣わされていきます。宣教の課題は、一言で言ったら、平和をつくり出すことです。イエス様が働いておられる現場に向って、私たちも平和をつくり出す使命を少しでも果たしていきたいと思います。

2021年6月20日

「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マルコ15:39)。イエス様は人々に罵られ、最後に「わが神、わが神」と絶叫して十字架上で息絶えました。この時、百人隊長が「この人は神の子だった」と言ったのです。イエス様とずっと一緒にいた弟子たちでさえ理解できなかったのに、この百人隊長はなぜこう言えたのでしょう。「正しい方が苦しむ」を目の当たりにして、その苦しみが自分のためであったと受け入れたからと思います。

2021年6月13日

「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した」(マルコ14:45)。ユダは、イエス様に絶大な期待をかけていたと思います。イスラエルを救ってくださるという期待です。全力でイエス様に仕えてきたのでしょう。しかし、ユダの心にサタンが入りました。ユダは、イエス様から自分は十字架に付けられるのだと聞いて、そんなことが絶対にあるはずがないと思ったでしょう。イエス様を愛し、イエス様に全てを捧げて生きてきたのに、イエス様を引き渡してしまいました。引き渡した瞬間、ユダは自分がイエス様をどれだけ愛していたかに気づいたことでしょう。

2021年6月6日

「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた』」(マルコ14:6-8)。ナルドの香油をイエス様に注いだ女性は、人々には大変な無駄をしたと映りました。しかし、イエス様は、良いことをしてくれたとおっしゃいました。イエス様は、自分の埋葬の準備と受け取られたのでした。イエス様の十字架の前日のことでした。しかも、イエス様は、自分に対してできる限りのことをしてくれたのだと言われました。できる限りのことをしたいと思う人がいるということは幸いなことです。この女性にとっては、それはイエス様でした。イエス様のためにできる限りのことをする、そういう生涯をおくれたら幸いと思います。しかし、良いことをして、できるかぎりのことをして生きたかどうかは、イエス様がそうおっしゃってくださるかどうかで、自分で考えることではなさそうです。私のために命を捨ててくださったイエス様のことを思いながら、日々、生きていきましょう。