アーカイブ | 8月 2023

2023年8月27日

日本の仏教用語で「逆縁(ぎゃくえん)」という言葉があります。仏の御心に反して生きることを意味していますが、そこから転じて、親より先に子どもが死ぬことも「逆縁」と言うようになったのだそうです。人が悩みに苦しみ、子どもが生き急いで自ら死を選んだり、あるいは貧しい時代に子どもを育てることが出来ないと思い、親が子どもを殺めること、その両方を戒めるために、子が親より先に亡くなることは仏の御心に非ず、死後の幸いならざる故に、共に生きるべしと教えた、心優しい僧侶がいたのかも知れません。しかし子どもと親、どちらも望まなくても、病や事故で、親より先に子どもが亡くなることはあります。マルコ5章でイエス様に助けを求めた父親は、病に苦しみ死が差し迫る我が子が生きる事を願っています。イエス様はすでに亡くなった子どもを生き返らせました。しかも、生き返った時には病はなく、健康な状態になっていたようです。この家族を通して、死を超える命を与える神さまがおられることが示されました。聖書は、子どもが親より先に亡くなったとしても、死で終わらず、苦しみに終わらず、復活の命を与えて下さるイエス様と共に、天に生きる希望を示しています。朽ちることのない命を与えて下さる神さまは、自らの、そして家族の死に悩み、悲しむ全ての人の魂を救って下さる愛の方です。

2023年8月20日

吹田市にある万博公園では8月20日まで、「ひまわりフェスタ」が行われているそうです。宿根のものもありますが、一般的に知られているひまわりは、一年草です。夏が過ぎれば枯れて、美しく元気な花はなくなってしまいます。しかし、また夏になれば落ちた種から芽が出て、いつの間にやら大きな花を咲かせるようになります。イエス様がたとえで用いておられる「からしだね」は、「クロガラシ」という一年草らしいのですが、イエス様は季節ごと、年ごとに種から大きく育つ畑の植物たちを、神さまの恵みを受けて生きる人々の姿を重ね合わせておられたのでしょうか。畑で野菜を育てる人は、色々と手入れをするものですが、どれだけお世話をしたとしても、すぐに実を結ぶわけではありません。しかし、段々と成長し、時が来たれば豊かな実を結びます。まだ芽が見えない時も含めて、命は日々成長し続けます。神さまの愛に満ちる世界も、人の努力によってすぐに実るものではないですが、目に見えない時、枯れ果てたと思う時でさえも、新たな命が日々新たに成長し続けているのです。

2023年8月13日

「人の振り見て我が振り直せ」と言う格言があります。他人の良くない振る舞いを見たときには、自分自身にも同じような弱さがあるかも知れないと思い、自ら身を慎むべきである、という意味です。イエス様は、他人の良くないところを指摘しながら、自分自身が過ちを改めようとしないのは「偽善者」であると厳しいご指摘をしておられます。しかし、イエス様が指摘しておられる問題点は、個別の問題行動を改善しないということではありません。他者への配慮、隣人愛に欠ける振る舞いを指摘する人が、その指摘に際して隣人愛に欠ける振る舞いをしてしまうことが問題なのです。「偽善者」と訳されるギリシア語「ヒュポクリテース」は「演じる人」という意味があります。相手のことを思いやるふりをして、隣人愛に欠ける言い方や振る舞いをしてなじってはいけない、とイエス様は教えておられます。

2023年8月6日

聖書における7という数字は、実際に7つという意味だけではなく、神様が関わる完全な事柄を象徴する数字、完全数と呼ばれています。マタイによる福音書18章21節ではペテロがイエス様に対して、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、7回赦せば良いですか、と尋ねています。ペテロは、7という数字が聖書において完全数であることを了解していたからここで他の数字ではなく7回と言っているのでしょうか。しかしイエス様は、7回ではなく、7の70倍赦しなさい、と言っておられます。7かける70は490ですが、ここでイエス様が言っておられるのは具体的な回数ではなく、赦しの恵みは完全数の上に完全数の10倍をかけるように、回数制限など考えない限りない寛容さであり、人が十分だと思う想像を遥かに超えるものとして現れるものだと教えておられるのではないでしょうか。神さまによって、完全に罪赦された者として、隣人のあやまちを赦していく寛容さが、心の内に備えられますように。