アーカイブ | 6月 2023

2023年6月25日

福音書の中でイエス様は、多くの人々の、さまざまな病を癒されています。イエス様が癒して下さった病の中にはハンセン病や中風の後遺症など、当時の医学では癒す方法が見つかっていないものがありました。不治の病を癒すイエス様は、人間を土から形作り、命なきものに命を与えて下さる神さまがおられることを示しておられるようです。イエス様が癒された病は、細菌やウイルス性のものばかりではありません。心の病や社会的な病に苦しみ、不健康な人生を過ごしている人々をも癒されました。イエス様は人の内面性を病ませ苦しめるものを「罪」と呼んでおられるようです。イエス様のおられた時代、徴税人や娼婦といった人々は、罪深い人々だと考えられていました。多くの人々は病人から病をうつされる事を恐れて遠ざけるように、罪深い人々を自分たちの生活から遠ざけていました。しかしイエス様は、病が癒されるように、罪深さも癒されるべきものであり、ご自分はそのためにこの世界に来られたのだと言われました。イエス様は罪深さが癒されることを「悔い改め」と表現しておられます。原文のギリシア語では「メタノイア」と言います。「メタノイア」というのは「方向転換」という意味です。心と人生が、自分のためだけに生きることから、神さまと隣人を愛する方向転換することが「悔い改め」です。罪深いとされていた人々だけではなく、自分は罪無く正しく生きていると思い込んでいる人々が抱いている罪深さが顕わにされ、全ての人々が神さまの愛によって健康な人生を回復する事が出来る、悔い改めの恵みを必要としていることが示されています。

2023年6月18日

イエス様は、40日の断食を行うほどに食を控えて祈りの生活に専念されることもありましたが、日常では食事を大事にしておられたようです。福音書で描かれるイエス様は、しばしば食事の席で人を癒し、神さまの恵みを語り伝えておられます。イエス様が共におられる食事の場は、身体のためだけではなく、魂の糧が得られる場所でもあります。イエス様のお話を聞きたい、癒されたいと思って集まった人々がいました。しかし彼らは十分な食事の準備せずに集まっていたようです。もしかすると、イエス様のところに行けば何か食べ物があるだろうと期待した人々もいたのかも知れません。イエス様の集会は3日ほど続き、そろそろ解散しようかとなった頃、イエス様は人々が空腹のままであることを「かわいそう」に思いました。「かわいそう」と訳されたギリシア語「スプランクニゾマイ」は、「共感する」という意味があります。すぐには死ななくても、3日も空腹状態であれば帰り道で倒れる人も出たかも知れません。イエス様がわずかな食べ物を祝福されると、4000人以上の人々が満腹になりました。神さまの奇跡は、目の前の自分を愛するように隣人を愛そうとする、優しい感情から始まっています。

2023年6月11日

感情は、自然と起きるものであって、嫌なことを意思の力で無理矢理喜ぶことは出来ないでしょう。聖書が「いつも喜んでいなさい」と言うのは、無理に喜んだふりをすることを求めているわけではありません。「絶えざる祈り」と「どんなことにも感謝」という信仰と意思によって、「いつも喜んでいる」状態となり得るのだと、聖書は教えているのではないでしょうか。磨かれる前の宝石や、岩の中に隠れている金銀は、一見何もないと思えても、良い物が含まれていると信じて取り組めば、喜びが見いだされるでしょう。苦難や悲しみそのものがなくなったり、喜びへと転じはしなくても、神様は人生の中に喜びを備えていて下さいます。信じて祈り続け、小さなことでも感謝をしていれば、自ずと心動かされ、喜びに溢れる人生となるでしょう。

2023年6月4日

ルカ福音書15章後半では、「放蕩息子のたとえ」の放蕩息子の兄が登場します。兄息子は放蕩した弟息子と違い、日々真面目に働いてきました。放蕩した弟と違い、父が生きているのに遺産を当てにしたこともありません。それなのに、自分は良い働きの報いが与えられず、放蕩した弟にはその価値もない宴会を開いて喜ぶのは、受け入れがたいと怒ります。しかし、父は怒る兄息子をなだめて、自分の持ち物は全て兄息子のものになる、つまり兄息子が真面目に働くのは、彼自身の財産が豊かになるためなのだから怒ることはない、と諭します。そして、弟は死んでいたのに生き返った、あり得ないことが起きたのだから、特別に喜ぶのは当然だと言います。この物語の中で、兄息子は愚かだった弟、真面目に働いてきた自分という過去を見ています。しかし父親は、回心してこれから真面目に生きるであろう弟息子、自分の家を受け継ぎ豊かになるであろう兄息子という未来を見ています。この父親の姿が神さまになぞらえられています。神さまは人の罪深い過去ではなく、悔い改めた後の生活に期待して下さり、正しく真面目に生きてきた人が、その正しさの故に豊かに報いられることを望んで下さる方です。神さまは過去の過ちを悔いる人を赦し、今はすぐに赦せない人たちが、未来には共に生きることを願って、全ての人を幸いへと導いて下さる方です。