アーカイブ | 11月 2023

2023年11月26日

「収穫感謝祭」は、米国、カナダで行われてきたお祭りの一つです。かつてイギリスから北米に移民してきた人々が、その土地でとれた初めての収穫を神さまに感謝した礼拝が起源であるとされています。米国では、11月の第四木曜日、カナダでは、10月の第二月曜日に行われているそうです。日本では11月23日は「勤労感謝の日」として祝日と定められています。日本の勤労感謝の日は、秋の収穫の祭りであった「新嘗祭(にいなめさい)」が由来とされています。しかし、神道色が強い表現ですから宗教的な表現を避けて「勤労感謝」と呼ぶことにしたのだそうです。「収穫感謝祭」と「新嘗祭」は宗教は違えども、大地の実りを自分の努力の報酬として受け取るだけではなく、目に見えない神さまによって助けられたことを感謝する、祭りの日だったのでしょう。使徒言行録14章17節では、宗教は違えども、聖書の神さまは万人の神さまであり、だから神さまはどんな人、どんな地域であっても、大地に実りを与え、人々に収穫の喜びを与える方なのだ、と教えているようです。日本の勤労感謝の日は、働く人への感謝と働く人自身が何者かに感謝する日です。人々の信仰はそれぞれ違えども、キリスト教会は全ての人々の代表として、聖書の神さまに感謝を献げて、次の収穫のために人と世界が守られるよう祈り、神さまに礼拝を献げます。

2023年11月19日

新約聖書の時代の人々は、商売上の契約など、何か重要な約束事をするときには、自分の信じる神様にかけて約束事を果たすことを誓う、という習慣があったようです。自分の信じる神様にかけて誓うのですから、もし約束を破ってしまったら、その人自身の信頼を失うだけではなく、いわば約束の立会人とされた神様の名誉を傷付けることになります。だから、神様にかけて誓ったなら、必ずその約束は果たさなければならない、と言うことになっていました。しかしイエス様は、神様やそれ以外の自分の所有物でもない大きなものを使って誓いを立ててはならないと言っておられます。そもそも約束をしたなら、誓いをたてたものの大きさにかかわらず、どんな約束でも守るのが当たり前だ、ということかも知れません。約束事をするときに、出来ることは出来る、出来ないことは出来ないと正直に言えばよいので、そこで自分ではどうにもならない何事か持ち出して誓うのは、かえって不誠実なことだ、とイエス様は言っておられるのかも知れません。始めから出来ない約束はせず、約束を果たせなかったときには他の誰かに責任を押しつけずに、相手に謝ることが大事です。

2023年11月12日

怒りには、不当に虐げられた人を気の毒に思い、愛する人を守ろうとするが故に起きるものもあります。しかし、普段からいつでも何かに怒っている人は、単に怒りっぽい人です。自分の意見、主張を相手に伝える時に、怒鳴り声や恨み言や、相手に対する攻撃的な方法を使えば、その場では相手を言いなりに出来るとしても、人間関係は悪くなります。ヤコブの手紙1章19節で、怒るのに遅くある前に「聞くのに早く、話すのに遅く」あるようにと教えるのは、単におしゃべりの順番を待つようにというのではなく、自己主張を優先しないようにしなさい、という事かも知れません。我を通そうと焦らず、腹立たしくても穏やかに語りかけ、時間をかけて説得することが、隣人愛に生きるキリスト者に相応しい姿なのだと、聖書は教えているのかも知れません。

2023年11月5日

新約聖書学者レオン・モリスは新約聖書で愛と訳されるギリシア語「アガペー」について「見返りを求めず与えようとする愛」、同じくギリシア語で「愛」を意味する「エロス」は「相手を自分のものにしたいと欲する愛」と定義しています。他にもギリシア語では、友情/友としての愛を「フィリア」と言い、この動詞型「フィレオー」は新約聖書の中でもしばしば用いられています。しかし、「家族愛」を意味するギリシア語「ストルゲー」は新約聖書の中でつかわれておらず、「ストルゲー」の代わりに「アガペー」が用いられています。つまり、新約聖書では神の愛、そして人が他者に向ける最高の愛である「アガペー」を、親が幼子に与える無償の愛と重ね合わせているようです。心理学では、幼少期に親の愛を十分に受けることが出来なかった人は、大人になった時に、情緒や人格に問題が生じる可能性がある、と考えられています。しかし、親から虐待され、愛を受けていなかった人の全員が親と同じ事をするのではなく、親とは異なり愛情深い親となることもあります。学校や友人や職場や、親以外の親族、色々な大人達、他の人々との関わりの中で、「見返りを求めず与えようとする愛」を経験することがあれば、自らもまた同じ愛を誰かに向けることが出来るようになるはずです。イエス様を通して人は天の父からのアガペーの愛を受けていることを知り、自分が受けた同じ愛を他者へと向けることができる者へと変えられるのだと、聖書は教えているのではないでしょうか。