アーカイブ | 5月 2025

2025年5月25日

聖書の舞台であるパレスチナ地方は、アフリカ大陸から西アジアを通り、ヨーロッパ方面へと抜ける交通の要衝であり、非常に多くの渡り鳥たちを見ることが出来る、野鳥観察の盛んな地域として知られています。マタイによる福音書10章29節では、「スズメ」という小さく、どこにでもいる小鳥が人間の姿になぞらえられています。しかし6章26節でイエス様が人間を空の鳥になぞらえておられる時には、人々の上では色々な種類の渡り鳥たちが空を飛んでいたかも知れません。鳥たちにもそれぞれの生活があり、人間からすれば無計画に思えても、経験と本能によって住まいを定め、日々の糧を得るための計画性を持っています。しかし、自然界の厳しさの中で日々の命があるのは、鳥たちの自助努力を超えた神さまのご配慮と養いがあるからであり、まして子としてくださる天の父なる神さまは、人間を慈しみ見捨てることはない、だから日々の生活に思い煩うのを止めて、必要は神さまが満たして下さると信頼して、日々の生活に努めるようにとイエス様は教えておられるようです。

2025年5月18日

「エルサレム」は、聖書の時代から現在のイスラエルに至るまで首都となっています。聖書の舞台であるパレスチナ地方の都市は、都市全体を城壁で囲い要塞化することがありました。エルサレムはパレスチナ地方の中心部に位置しており、山城でもありました。名前の由来については諸説在りますが、よく知られてる説としては、「エル=神さま」「サレム(シャローム)=平和」、つまり神の平和という意味です。エルサレムは防衛のための拠点でもあり、歴史上、大国に侵略されたときには、籠城戦で数年持ちこたえることもありました。この堅固な要塞にとって、もっとも恐るべき事態は外敵よりも、内部の人間関係の争いだったかも知れません。権力者達が互いに争い、人々がその争いに加担したり巻き込まれたりして弱まれば、城壁が固くても滅びを招いてしまいます。詩編122編の言葉は、現実の城壁と外敵に対する平和だけではなく、むしろいかなる苦難の中にも、神さまの支えと守りを信じる心が、人を助ける確かな城壁のようであり、外からだけではなく人の心の内側が自己中心的な罪から争いを起こさず、神さまによって心清められた平和があるように、と言う祈りとなっています。

2025年5月11日

本日は母の日となっています。母の日は、もともと米国のキリスト者である一人のご婦人が、召天されたお母様を偲んで行った記念礼拝が、後に米国民全体にとって、それぞれのお母様に感謝し、ねぎらう日として祝日と定められていきました。現代人にとっては、母親となり「家庭」の働きに仕えるということは、しばしば専業主婦となり、家庭に縛られることという否定的な側面から語られることもあります。しかし、新しい命を産み育てるという働きは、それ自体は喜ばしいことであり、そのために夫婦が協力し、良き家族として、人間として成長していくことは、必ずしも母親が専業主婦であらねば出来ない事ではありません。さまざまな形で子どもを育て、母親として、人間として成長する人がおられることでしょう。しかし聖書は、どのような親であれ、新しい命は自分自身が造りだしたのではなく、むしろ神さまから授かったものであり、預かっている存在であるという謙遜さが必要であると教えているようです。箴言14章1節の直訳は、「家を建てる」です。しっかりとした土台なくしてしっかりとした家は建ちません。イエス様の示された自らを献げる神さまの愛が土台となるとき、母親は優れた大工のように良き家庭、良き家を建てるものとなるのだと、聖書は教えているようです。

2025年5月4日

この箇所で「考えなさい」と訳されたギリシア語「ロギゾマイ」は「論理」を意味する「ロゴス」の変化形の一つで、「思う」や「感じる」のような感情、感覚的な思考とは異なり、「計上する」や「評価する」のような理性、論理的な思考を意味します。つまり、イエス様の救いに与り、神さまを信じて生きるということはすでに、十字架の出来事を通してなされていると信じつつ、自分自身が救われた者として相応しく罪から離れ、清められた人として何が出来ており、何が出来ていないのかをしっかり考えることが大事だと教えられているようです。1-12節では、キリストと共に、一体的に、という言葉が繰り返されています。キリストと共にいる人は、もはや罪が罪と解らなかった時や、罪に支配されていた時のように罪を犯し続けることが出来ず、悔い改めへと導かれます。また一人で孤独に考えるのではなく、独善に陥らないように、罪人を友と呼び、清めて下さるイエス様のお言葉に聞き、神さまのお導きによって得られた信仰の仲間と共に考え、共に成長することが出来るのだと、聖書は私たちを励ましているようです。