アーカイブ | 6月 2024

2024年6月23日

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がありますが、人間は健やかな体でも不健全な心の状態になることもあります。本来この言葉は健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」という表現であり、人間の実態はそうではないことを認め、理想として外側だけではなく、内側の健やかさをも願い求めるべきではないか、という問いかけなのだそうです。イエス様もまた、身体的な健康と心の健康状態については区別するべきだと教えておられるようです。イエス様はマタイによる福音書15章18節で人の心を不健康にするのはその人自身の心であること、そして具体的に心の健康・衛生状態が悪化する理由としては悪口など、心から出てくる言葉の問題を指摘しておられます。怒りや悪意が心に起こること自体を止めることは出来ないかも知れません。しかし、隣人愛によって忍耐し、言葉として相手を傷つけないように配慮するとき、その人の心は、健康な胃腸が食べ物を正しく消化するように、自分の思いを消化して清潔さと健康を保っているのかも知れません。胃腸の弱るように心弱る時にお薬を飲むように、心汚す思いの消化を助けてくださるイエス様のお言葉をいただきましょう。

2024年6月16日

イエス様はルカによる福音書15章11-32節で、父の財産を受け取って、それを全て浪費した果てに父の家に帰ってきた息子と、その息子を愛情深く受け入れる父親のたとえ話を通して、神さまの愛を教えておられます。たとえ話の父親は、家を離れた息子の人生が上手くいかないことを予感していたかも知れません。しかし、無理に引き留めませんでした。失敗するかも知れないと分かってはいても、子どもの自由な意思を尊重したのでしょう。父親にとっては自分が受け継ぎ、増やしてきたであろう財産は、彼自身の人生の証だったかも知れません。それが空しく費やされるのだとしても、この父親は息子に財産を渡しました。そして実際全て失った息子が自らを悔いて戻ってきたときに、父親は無条件で愛を示し、受け入れました。神さまは人が過ちうることさえ赦し、自らの弱さや愚かさに気づき、自由な意思で悔い改めて、心清められる機会を与える愛を示して下さる方です。

2024年6月9日

新約聖書の四つの福音書の中で、マルコによる福音書は最も短い書となっています。特徴の一つとして「すぐに」という表現が多用されています。読み手には、いつかという未来のことではなく、今すぐに救いの出来事が起こり、イエス様を信じる信仰へと招かれているという現在性が強調されているようです。物語の始まりとなる1章15節では、イエス様の一番始めの発言として「時が満ちた」という表現が紹介されています。この表現も、「今すぐに」というマルコ福音書の特徴が現れた表現です。「時が満ちた」という表現は、準備が完了した時に用いる表現です。イエス様がこの言葉を用いられたのは、イエス様の先輩に当たるバプテスマのヨハネが権力者によって捕らえられたという迫害の出来事の後でした。しかし迫害を恐れて、時期が悪いと考えるのではなく、むしろ悲惨な世の中である今こそ、イエス様の救いの出来事が起きるに相応しい、と語るマルコ福音書の始まりは、困難な状況の中にいる人々に対して、どんな状況の中でも、今すぐに救いをもたらし、神の愛に招いて下さるイエス様がおられることを力強く伝え、励ましているようです。

2024年6月2日

コリントの信徒への手紙第一13章では、イエス様を信じる人にとって最も重要で、欠かせない心の有り様は、信仰と希望と愛の3つであり、特にその中では愛が最も重要であると教えています。この愛はギリシア語では「アガ-ペー」という単語で、性愛や友愛とは異なる愛として区別されています。新約聖書では神様が人間に向ける愛を「アガペー」と表現しますが、親が幼子に見返りを求めず与える愛になぞらえられることもあります。人間はお互い様の精神で、助け合うことが大事です。しかし、お互い様の精神は、相手から何らかの見返りが有ることを前提とした愛です。すでに人間は神様から見返りを求めない十字架の愛を受けており、十字架の愛を知っている人は、自らもその愛を隣人に示そうとすることが出来ると、聖書は教えています。キリスト者の集うキリスト教会は、このアガペーの愛を知った人々が互いに愛を示し、まだ知らない人々を招く場所として整えられ、成長していくのです。