「株」と訳されたヘブライ語「ゲザ」は、木の幹や木の根元、という意味です。しかし、直前の10章34節では、高慢の罪に陥った神の民イスラエルが、切り倒される木々になぞらえられ、滅びの宣告を受けています。そこで11章1節ではすでに「切り株」となり、一度死んだ状態となった神の民が新しい命を神さまからいただいて復活するという赦しと恵みの預言として表現されています。切り株から出てくる若枝を「ひこばえ」と呼ぶことがあります。漢字だと「孫生え」と当てるようです。ヘブライ語にはこのような意味はないはずですが、不思議と、エッサイの子孫としてのイエス様という意味と重なります。このひこばえは、イエス様のことであると同時に、イエス様を信じて共に生きる人々が新しく命をいただいて生きる姿の象徴でもあります。小さなひこばえが巨木となるように、イエス様のお誕生は小さく始まり、世界中に枝を伸ばすクリスマスツリーのような大きな恵みです。
アーカイブ | 11月 2025
2025年11月23日
このたとえ話では、神の国が、小さな始まりから、やがて驚くほど大きく成長する、という逆転の論理を示しています。からし種は当時の人々にとって「最も小さいもの」の代名詞でした。イエスさまの活動も、ガリラヤの片隅で始まった小さな集団でした。しかし、その小さな始まりの中に、神さまの力と約束が秘められています。私たちが日々の中で行う、ごくささやかな祈りや隣人への愛の行為が小さく見えても、神さまの視点からはからし種のように尊く、やがて思いがけない実を結ぶ可能性を持っています。空の鳥が来て枝に宿る、というイメージは、神様を信じるいろいろな人が身を寄せる場所のなぞらえです。神さまのおられる場所は多くの人に憩いと安全をもたらす包容力のある場所です。目に見える成功がないときでも、信仰と愛に根ざした小さな選択を続けるとき、その中で静かに神の国は育っているのだとイエス様は教えておられます。
2025年11月16日
この節は、イエスさまがご自身の死と、その死がもたらす実りをたとえで語った言葉です。十字架の「時」が来たことを受けて語られます。「一粒の麦」はイエスさまご自身のことでもあります。麦の粒は、そのまま大事に取っておけば一粒のままですが、土に落ちて「死ぬ」と、殻が壊れ、中のいのちが解き放たれて、多くの穂と実を実らせます。同じように、イエスさまが十字架で命をささげることによって、多くの人が救いにあずかり、新しいいのちを持つようになる、という意味です。同時に、このたとえは弟子たちにも当てはまります。続く箇所で、イエスさまは「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と言っておられます。自己中心を握りしめて生きれば、いのちの本当の実りは失われますが、神の御心のために自分を手放すとき、そこに多くの実りが生まれる、というキリスト者の生き方の原則が示されています。
2025年11月9日
イエス様は天国について、さまざまなたとえ話によって教えておられます。このたとえ話の商人は、人生の中で「本当に価値あるもの」を真剣に探している人を表し、一つの真珠は、天の国、キリスト、そして救いの象徴です。どんな成功、財産、安心よりも、神さまとの関係の方がはるかに価値があります。通常商人は「全部売り払う」ことはありません。商人はもうけが出るように考えて売るのであり、慌てて売り出すようなことをすれば、安く買いたたかれる可能性があります。しかし、たとえ話の商人が、通常の商売では損失となるような「全部売り払う」ことをしてでも現金化しているのは、たとえそうしたとしてもはるかに、そして本当に価値あるものを手に入れたいと思っているからです。「これこそ自分が探していたものだ」という発見の喜びからくる、優先順位の全面的な入れ替えが起きています。信仰とは、義務的に何かを差し出すことよりも、「最も尊いものを見いだした喜び」から始まる歩みなのであり、天の国を信じる生き方には、人の人生を新しく変える大きな希望が備えられているのだと、イエス様は教えておられるようです