アーカイブ | 7月 2018

2018年7月29日

神様の救いは、アブラハムの選びによって具体的な歴史の中で示されました。神様と離れた人間を救うために、多くの民の中からイスラエルを選ばれました。イスラエルは、他の民のためにも神様がどんなに憐れみ深い方であるかを証しするために選ばれたのです。そのために多くの預言者が立てられました。預言者は、神様の約束を信じ、希望を持つことを、励まし、教えたのです。そして、ついにバプテスマのヨハネが現れました。ヨハネは、キリストではありません。いよいよ救いの歴史の中心であるイエス様がいらっしゃいます。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」(マルコ1:7)

2018年7月22日

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:4-7)神様の救いの業は、アダムから始まって今も続いています。聖書には、神様の救いの歴史が記されています。神様の選びと契約、律法が与えられ、そして決定的な救いの主イエス様の十字架と復活、そして、教会の働きに示されています。迷い出た羊一匹捜し続けるお働きで、今のわたしたちがあります。

2018年7月15日

私たちに与えられている救いは、罪からの救いです。その救いは、イエス様にあります。世界には、いろいろな救いがあるかも知れません。罪からの救いは、全人格を救ってくださる救いです。「わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」(イザヤ書44:22)、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)。バプテスマをいただいて、新しく生まれ変わりました。新しく造られたものとなったのです。神様に愛され、神様を愛するものとかえていただきました。

2018年7月8日

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)私たちは、イエス様によって本当の罪の姿を知りました。イエス様の罪の赦しの中でしか、自分の本当の姿は見ることはできません。その姿を見ることは、辛いことです。しかし、、感謝なことです。イエス様の恵みが増し加わるからです。

2018年7月1日

蛇は、エデンの園でエバに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創世記3;1)と言います。エバは、園の中央の木の実だけは食べてはいけないと答えるのですが、「決して死ぬことはない」と言われ、エバは食べ、アダムも食べたのでした。二人の目は開かれました。それによって、神様との交わりを失いました。人と人との正しい交わりを失いました。死に向かっていくものとなりました。労働がつらいものとなりました。絶えずサタンとの戦いの下に置かれました。ますます自由を自分のために使うようになり、罪の中に入り込んでいきました。そうなってしまった責任をだれも負いきれないのです。神様との関係回復なしに人には、真の平安はありません。イエス様を信じるのみ、私たちは救われるのです。