アーカイブ | 12月 2024

2024年12月29日

フィリピの信徒への手紙の著者であるパウロは、大変立派なキリスト者として知られています。しかし、彼ほどの人物であっても、自分はまだまだ完全な者には遠い、と謙遜しています。この謙遜さは心ではおごり高ぶっているようなうわべだけのものではなく、本心からまだまだだと言っています。パウロが追い求め続け、謙遜にならざるを得ないのは、復活の恵みに与る、ということについてでした。パウロはイエス様を信じる信仰によってすでに自分が罪から清められ、新しい命、新しい人生が与えられているという意味での復活の恵みを、すでにいただいていると確信していました。しかし、肉体を伴う復活という神秘はまだ経験しておらず、どのような形でなされるのか、はっきり解ってはいません。だからまだ自分は復活の恵みについては確信していても、完全に捕らえ切れてはいない、自分は死ぬまで信仰の探求者なのだと言っているのでしょう。パウロがこのように自らの信仰理解における不完全性を告白するのは、信仰の友らが、完全な者になったのだと思い込む高慢に陥らず、共に謙遜に新しい命を追い求め続けて欲しいと願っていたからでしょう。自分の信仰歴を誇り、高慢に陥らず、死ぬまで新しい命を追い求める人こそ、復活の恵みの只中に生きているのです。

2024年12月22日

ルカによる福音書2章では、イエス様がベツレヘムで生まれることになった背景に、当時ユダヤ王国を支配していたローマ帝国の政治的事情があったと記しています。「住民登録」は今で言う国勢調査であり、税金と兵役のための調査でした。イエス様の父親となったヨセフの本籍地がベツレヘムだったからでしょうか、住まいのあるナザレから長い旅をすることになります。すでに臨月であった妻マリアと共に旅をしたのは、法律的に彼女も登録する必要があったからなのか、それともナザレに一人留まるのは居心地が悪かったのでしょうか、いずれにせよマリアにとっては苦難の旅だったでしょう。ところが到着したベツレヘムには、彼らがとまれる場所がありませんでした。妊婦に対して、ずいぶんと人情のない扱いをしているように感じられます。旧約聖書の掟によれば、流血はケガレと見なされていましたので、出産に伴う出血によって宿屋の商売に差し支えがあることを嫌がって、宿泊拒否をされたのかも知れません。人間の世界の、優しさに欠ける罪深さの只中に、イエス様はお生まれになられました。しかしそこから、世の罪を清め、新しい命を与えようとされる神さまの愛そのものである、イエス様の救いの出来事が始まりました。神さまの救いの愛は、人間の想像を超えて進み、世の闇の中に輝き出でる光です。

2024年12月15日

アドベント三本目のロウソクは、喜びを象徴する灯火です。羊飼いたちを象徴する灯火と言われることもあります。イエス様が生まれたベツレヘムは、昔から羊飼いの村として知られていました。新約聖書の舞台であるユダヤ王国にとって、古代の英雄であるダビデも、ベツレヘム村の羊飼い出身でした。イエス様がこのベツレヘム村で生まれたことには、英雄ダビデを重ねあわせる意味もありました。しかし神さまが天使たちを遣わしてイエス様のところに招いたのは、戦士達ではなく羊飼いたちでした。新約聖書の時代の羊飼い達は、罪深く、無学で、貧しい人々の代表的存在でした。彼らは都市生活者たちから離れ、孤独感の中で羊たちの世話をしなければなりませんでした。しかし神さまは社会構造にあらがうすべもない、羊のような存在を導く羊飼いの救い主としてイエス様をおつかわし下さいました。イエス様のお誕生を祝うクリスマスの喜びは、あらゆる弱さや罪深さに悩み、あるいは悩むことすら出来ない人々に与えられているのです。

2024年12月8日

詩編119編24節で「定め」と訳されているヘブライ語「エドュート」は、「証人/証言」あるいは「法律」などと言う意味があります。特に旧約聖書では神さまと人間との「契約」という意味でも用いられています。神さまの契約というのは、人間の側は神さまを信頼して生きるよう努め、神さまの側は人間を救い、幸いへと導いて下さるという約束のことです。この契約が人間にとって幸いなのは、人間の側はこの約束をしばしば忘れたり、破ったりするにも関わらず、神さまの側は決して裏切ることなく実現しようとし続けておられるということです。この神さまの側の変わらざる誠実と愛があればこそ、人間が罪を犯し、道を踏み外しても、再び神さまに立ち返り、悔い改めることが備えられています。この神さまの契約は新約聖書において、イエス様の十字架の出来事によって引き継がれ、新しくされました。誰でもイエス様を信じ、救われる人は、神さまの契約の中に入れられているのです。

2024年12月1日

アドベント第一週、一本目のロウソクは「希望」を象徴する灯火です。新約聖書では、この世界に来られた神のひとり子、救い主であるイエス様のことを希望の象徴として繰り返し記しています。ローマ5:5の「希望」は神さまを信じる人が抱く、さまざまな内容の希望であると同時に、イエスさまに象徴されている、人の人生全体を包括し、日々新しい命へと変えて下さる救いの希望を意味しています。苦しみや悩みは、自ら求めるものではありません。叶うことならば、避けたいし、早く取り去られることを望むものでしょう。しかし、苦難を忍耐し、苦難の只中にあっても喜び、怒りや憎しみに支配されず、平和を愛を願い続けることが出来るのは、忍耐の時が未来において必ず終わり、良き報いの時が備えられているという希望を抱いているからです。それどころか、希望があればこそ、苦難は忍耐と練達の経験を与え、人の心を成長させる糧となるのだと聖書は言っています。イエス様は冷たい石の心を光輝く活き活きとした心へと変える希望の力です。