町中で見かける黒背景に黄色と白の字で書かれた聖書の言葉、あるいはキリスト教的すすめが書かれた看板があります。この看板の一つに「神と和解せよ」と書かれたものがあります。キリスト教信仰に親しんでいる人であれば解りますが、そうではない方からすると、何のことだろう、と不思議に思う言葉です。この看板の文字が風雨で削れて「ネコと和解せよ」と読めるようになった看板があって、SNSで一時面白がられた時期がありました。野良猫や外飼いの猫に対して、フンの始末とか、厳しい意見が書かれた場所に張られている場合は、なおのこと面白く感じられます。日本や東アジアにおける「和解」という表現では、法律や戦争などの争いを止め、これ以上「争わない」という状態を意味する言葉として用いられてきました。しかし、新約聖書において「和解」と訳されたギリシア語「カタッラゲー」は、変化させて関係性を回復させる、という意味です。無関心ゆえに争いがないという和解では無く、対立から友好へと変化し回復する和解です。「ネコ」ではなく「神」と和解させていただいたということは、疎遠になっていた親子が仲直りし、家族の愛が再び満たされるような関係性へと変えられたということです。その愛の関係があるから、人の罪がなお繰り返されても神さまは見捨てること無く、愛によって忍耐し、必ず救いへと至らせて下さるのだと、聖書は教えています。
アーカイブ | 3月 2025
2025年3月23日
古代社会において血液は、命の象徴とされていました。東アジア、ヨーロッパ、アフリカでは、指や腕を切って血を出して、約束や誓いを交わすもの同士が混ぜ合わせたり、飲んだり、あるいは動物のいけにえを献げて血を流すことで通常の約束よりも重い、必ず守らなければならない契約を結ぶときの儀式として行っていたようです。聖書の中でも、神様への感謝や悔い改めの祈りを献げるときに、動物のいけにえを献げ、その血を礼拝所や祭壇に注ぐという儀式がありました。レビ記17章では血は命そのものであり、罪人の命を赦す象徴として動物犠牲の血を流すことが定められています。このような儀式に参加した人々は、過ちを犯した自分の代わりに命そのものである血を流して死ぬ動物の姿を通して、自らの罪深さが破滅に向かう深刻さを持っていることを思い起こし、再び同じ過ちを繰り返すまいとする悔い改めの思いが一層強まる効果があったかも知れません。このような身代わりの死と命である血を流すことによって罪清められ、赦しを得るという信仰は新約聖書の時代に、イエス様の十字架に重ね合わせられるようになりました。ヘブライ書9章では、この十字架のイエス様の血は、十字架を思い起こす人に心理的に悔い改めの思いを起こさせるだけではなく、命をかけた救いの契約のための血でもあったと教えています。人が罪へ無自覚さであり、無知であったとしてもなお、イエス様の血の約束によって、救いの恵みは有効であり、神様は血盟によって、人を罪から清めるために導き続けてくださるのです。
2025年3月16日
3月の大阪では、米の苗の育成が始まり、畑おこしなど田植えの準備がされているようです。聖書の世界パレスチナ地方では、3月終わりから4月前半あたりまでが、雨季の最後の時期であり、麦類の収穫の季節となります。イエス様の十字架の出来事はちょうど春の収穫祭でもある過ぎ越しの祭りのころに起きました。そしてイエス様は、十字架で死ぬご自分のお姿を、種まきされた一粒の麦になぞらえておられます。麦は、種まきされて麦粒ではなく生きた麦として成長し、豊かな実を結びます。イエス様は十字架の死によって多くの人々の罪を清め、豊かな救いの道を開いてくださいました。このイエス様のお言葉は、ご自身の十字架の死と復活の恵みについてだけではなく、イエス様を信じて従う人々に対して、十字架的な生き方をする勧めともなっています。自らの命を惜しむということは、ただ生存することを望むという意味だけではなく、問題が起きているにも関わらず今のままで何も変わりたくないと願うことや、自己中心的な幸せを求め続ける生き方をも意味しています。しかしイエス様がお示しくださったように、自らの命を自らの意思で神様の御心のままに用いられることを望んで委ねる時、豊かに用いられ、自ら大きく成長させていただき、自らのみならず多くの人々にも命を与える人生の豊かな実を結ぶことが出来るとイエス様は教えておられるようです。
2025年3月2日
聖書の舞台であるパレスチナ地方には、死海と呼ばれる塩分濃度の高い湖があります。あまりに塩気が強すぎるので、この湖には魚のような生き物が生きることが出来ないので死の海と呼ばれるのです。しかし、この死海、そして周辺の塩の谷から採れた塩は、人々の生活を助けるために用いられています。塩は食べ物の保存のため、食事に味をつけるため、ほどよく薄めて農地にまくなど、さまざまな使い方をされます。マルコによる福音書9章50節では、神様を信じる人たちの信仰と信仰生活を塩と塩気になぞらえているようです。古代社会では塩のような粉の類いは、しばしば砂や、不純物をわざと混ぜることで、利益を増やそうとされることがありました。酷いものになると、ほとんど不純物になってしまう、なんてものもあったかも知れません。塩だと思ったら砂の方が多いなんてことになれば、それはもはや塩とは呼べません。神さまを信じる人たちが、信じると口にしながらも、信じている人にふさわしい生活を心がけないで、抜け道ばかりさがして罪を犯し続けているなら、塩とは名ばかりの塩もどきのような存在になってしまいます。精製された純度の高い塩であれば安心して大いに用いられるように、私たちもますます清められて、神さまの救いのお働きに用いられますように。