アーカイブ | 9月 2019

2019年9月29日

讃美歌514番「弱き者よ、我にすべて、任せよやと、主はのたもう、主によりてあがなわる、我が身の幸はみな主にあり」。父はこの歌を、四六時中歌っていました。先週の金曜日、午後1時、私たちの前で突然息を止めました。美帆乃に最後、一口、お茶を飲ませてもらい、感謝でした。イエス様の十字架で救われた確信をいただきましたので、恐れることなく、御国に入れていただいたことでしょう。亡くなる数日前、「お母ちゃんは?」と言っていましたので、「イエス様のところで待ってるよ」と言いました。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」(黙示録14:13)

2019年9月22日

私の父は、12人兄弟の12番目です。兄弟たちからかわいがられたようです。軍国少年で、少年航空隊に憧れ、敗戦を迎えました。戦争中、勉強をしていなかったので、学校に入ろうとして予備校に行ったら、何もわからなかったと言っていました。川口の機械工場で働き続け、何度か起業して、小さな会社を作ってあえなく終わったようでした。それでも教会を一番にして生きた人生でした。今は、何もできない体になりましたが、ひたすらイエス様とお話をしながら、私たちのことを祈っていますので、感謝しています。

2019年9月15日

イエス様は、敵を愛し、「迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えられました。それは、「天の父の子となるため」(45)ですと言われています。そして、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるから」(46)と言われました。ですから、「悪人」というのは、あなたの敵であり、迫害する者であることがわかります。神様は、あなたの敵にも味方にも同じように雨を降らせてくださるのです。神様の恵みは注がれているのです。そして、「完全な者となりなさい」(48)との言葉で結ばれています。「完全」とは、敵を愛することでした。

2019年9月8日

ファリサイ派の人々にどうして目が見えるようになったにかと尋ねられ、彼は言います。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(ヨハネ9:15)また、人々に「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」(17)と問われ、「あの方は預言者です」(17)と答えました。私たちも証言していきたいと思います。信仰とは神様と当人の間に成り立つのですから、どんな小さな、ささやかなことでも尊いことです。神様が私にしてくださり、私もお応えしたことですから、語り続けましょう。

2019年9月1日

ファリサイ派の人々にどうして目が見えるようになったにかと尋ねられ、彼は言います。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(ヨハネ9:15)また、人々に「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」(17)と問われ、「あの方は預言者です」(17)と答えました。私たちも証言していきたいと思います。信仰とは神様と当人の間に成り立つのですから、どんな小さな、ささやかなことでも尊いことです。神様が私にしてくださり、私もお応えしたことですから、語り続けましょう。