アーカイブ | 6月 2020

2020年6月28日

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)」神様は、私たちをお造りになって、私たちを見守り、導き、養い育てておられます。神様の恵み深いみ手が私たちをご支配しておられます。私たちは、自由にいろいろなことを決め、自分で進みたいところに進もうとして、生きています。しかし、最も深いところでは、神様が導いておられます。神様のお心が大きすぎるので、私たちには分からないのです。しかし、聖書に記されているイエス様に心を合わせるならば、それが分かるのです。一羽の雀さえも神様の赦しなければ地に落ちることのない神様の深いご配慮が分かるのです。どんなに悲しい出来事の中にも神様は憐れみ、お引き上げ下さいます。

2020年6月21日

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』」

(ヨハネ14:6-7)

私たちは、神様を見ることも知ることもできません。神様の中にありますから、神様を捉えることはできません。神様につくられたものですから、創り主を理解することはできません。しかし、神様が、私たちにご自身をお示しになってくださいます。私たちの方から神様の方へは行けませんが、神様がおいで下さり、語りかけて下さり、神様にお会いすることができます。

そして、イエス様こそが神様の代わりに私たちのもとに遣わされた方で、神様ご自身をお示しになられ、神様の言葉となられた方です。イエス様を知っているなら、神様を知ることになるとあります。イエス様が道となってくださり、イエス様を通ることによって、私たちは神様のもとに行くことができるのです。

太陽や月や星、その他、自然にあるものを神様として礼拝することを聖書は厳しく禁じています。それらは、神様が造られたものだからです。神様の栄光を現わすものです。そういうものから自分の限界と無力さに気づき、神様を知るということもあると思いますが、そこからは本当の救いには至らないと思います。

十字架にまでお架かりになられたイエス様の愛をしってこそ、私たちは救われるのです。無から有を創り出される神様は、イエス様を知ることによって本当にわかることと聖書は示しています。

2020年6月14日

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)。どうしたらイエス・キリストを知ることができるでしょうか。聖書を読めばよいことが分かります。しかし、聖書を正しく理解するためには、神様の特別なお導きが必要です。そのために聖書に正しく聞くために教会をお与え下さいました。教会は、イエス様そのものです。教会で礼拝し、祈り合い、まじわりを深める中でイエス様の愛が分かり、神様を愛するようになるのです。

2020年6月7日

イエス様は、フィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに質問されました。大方、弟子としてのレッスンが終わったということと、イエス様はエルサレムに向かって、神様の大きなみ業に与らねばならない、大事な時を迎えられたからです。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」(マタイ16:15-16)。マタイ福音書では、この時のペトロをイエス様は、幸いだと言われました。つまり、合格、ということでしょう。しかし、このようにペトロが信仰告白ができたのは、人間によるのではなく、「天の父なのだ」とイエス様は言われました。人間の側の理解力の問題ではありません。神様が恵みによって示して下さったことなのです。イエス・キリストとは、イエス様がキリスト様、救い主です、という意味です。私たちもただただ恵みによって、信仰に与ったのです。イエス様のような生き方を求めることも間違ってはいないと思いますが、イエス様に全てを委ねて、イエス様と一緒に生きていくことが大切なのです。