人間の健康上、睡眠時間をしっかりととることは大事です。詩編127編2節にあるように、日々の生活のことで心の平安を失った結果、より多くのお金を得ようとして睡眠時間を少なくするような生き方は、心にとっても不健康であり、神さまによって必要なものが満たされると信じる人は、眠ることに罪悪感を持つことなく、神さまが一人一人に備えておられる適切な時間、安らかに眠ることが出来るのだと聖書は教えています。しかし、睡眠時間は、多ければ多いほど良いというものではありません。多すぎればむしろ健康を損なうことにもなるようです。ローマの信徒への手紙13章11節では、魂にも適切な目覚めの時があると教えています。この目覚めもまた、適切な睡眠時間の後に自ずと現れるものです。イエス様の十字架の救いを信じ、父なる神さまを信頼して生きるという新しい命は、その恵みに気がつくための適切な期間を経て、目覚めの時を迎えます。救いの恵みは、平安の後に自ずと現れ、すっきりと目が覚めるような、神さまが一人一人に備えておられる時です。
アーカイブ | 9月 2024
2024年9月22日
秋分の日は、夏と秋の境目の日であり、日照時間と夜の時間が等しくなる日とされています。しかし、ぴったり同じになるわけではありません。ほぼ同じになるのです。太陽と地球の動きからすれば、ぴったりになるはずなのですが、空気による光の屈折によって、実際はちょっと昼の時間が長くなるようなのです。というわけで、天文学的には同じであるけれども、物理学的には少しばかりずれるのです。聖書では、イエス様を信じて救われた人は、神さま側の理屈では完全に救われているのだけれども、人間側の現実では、なお罪を犯して悔い改めを続けている、完全な救いを目指して生きているのだと教えています。しかし、そのように自分にはまだ至らないところがあると自覚し、ひたむきに神さまを求めて生きる人生こそ、完成の中心点へと向かう、ほぼ完成された、実質完成された救いの只中に生きる人なのではないでしょうか。不完全であることは嘆くべきことではなく、むしろ完全を目指し、近づくことが出来る力の源泉でもあり、なによりそのような人のことをイエス様は、すでに天国に住まいを備えていて下さるのだと聖書は励ましているようです。
2024年9月15日
寒暖の差が大きくなる秋は、体力、免疫力が弱ることがあります。外出した後は手洗い、うがいを心がけたいものです。小さな子どものいる家庭では、子どもに手洗いの習慣を教えるために、始めは親と一緒に手洗いをするでしょう。保育園、幼稚園、小学校でも、衛生習慣を身につけ、自分だけではなく自分の周りの人たちをも、病ませてしまわないようにと願う、心の優しさを身につけます。日本では昔から、悪事を止めて更生しようとすることを、「足を洗う」などと言いますが、新約聖書のヤコブの手紙4章8節では、罪から人が清められ、悪から義へと回心することを「手を清める」と表現しています。この表現は当時の人々が、食事の前や、礼拝の前などに手を洗い、体を清潔にすることを「清める」と表現していたことに由来します。手洗いは、罪を清められ、悪事を止めることの象徴です。同時にこの箇所では、「心を清めなさい」とも言われています。悪の行いを止めるだけではなく、悪意、ねたみ、憎しみなど、悪の原因となっている自らの欲望を心から取り去らないと、また悪事がぶり返してしまうものです。祈りと礼拝という、心を洗い、心をうがいする習慣を身につけましょう。
2024年9月8日
列王記の時代、預言者達は偶像礼拝に対して強く反対しました。理由の一つは、当時のパレスチナ地方の土着宗教は、人間を生け贄として偶像神に献げたり、神殿を売春所としており、倫理観に邪悪な振る舞いを行っていたからです。預言者エリヤは邪悪なバアル宗教に対して祈りと真の神さまの力によって勝利したはずでした。ところが、世の中は変わりませんでした。むしろエリヤは厄介者として権力者から命を狙われ、人里離れた荒れ野へ逃げ出すことになります。神さまは挫折感に苦しみ、死すら望む言葉を発するエリヤを生かし、彼の心を励まします。悩みつつも立ち上がろうとするエリヤは、ある晩、不思議な体験をします。11-12節の表現は、もしかすると文字通り大きな災害が起きたことを意味しているのかも知れません。しかしエリヤは、人々が神の力を感じるはずの巨大な自然の力の中に、真の神さまの存在を感じませんでした。エリヤは全ての災いが終わった後に聞こえた静かな細い声に、自らを用いて人を生かそうとする神さまの存在を感じて立ち上がります。そしてエリヤは全体からすればわずかな、小さな人々を助け、祈るために、活き活きと生きる信仰者として生まれ変わったのでした。
2024年9月1日
童話「王さまの耳はロバの耳」のように、人の心は「秘密だよ」と言われるとなぜだか他の人に言いたくなることがあるようです。マルコによる福音書の特徴の一つに、イエス様がやたらとご自身のなさった奇跡を言い広めないようにと、秘密にしたがって、という様子が記されています。何故秘密にしようとしたのか、その理由は書いてないので、読み手は色々な解釈をしています。イエス様の働きのおもな目的は魂の救いだったので、病気や障害を癒すという奇跡ばかりが期待されるのは目的にそぐわないので、言い伝えることを禁じられたのでしょうか。あるいは奇跡は目の当たりにしないと信じることが困難なので、イエス様の奇跡を言い伝えた人がそのことによって嘘つきよばわりされたり迫害されないように、秘密にするべきだと教えられたのでしょうか。しかしイエス様が秘密と言っても、人々はイエス様の素晴らしさを言い広めました。我慢できなかったのです。開かれたのは話せない人の口だけではなく、喜びの心だったのかも知れません。