「新しく造られた者」とは、見た目が変わるということではありません。心の向きや生き方が、神さまによって新しくされていく、という意味です。人は誰でも失敗したこと、後悔していること、だれにも言えない傷や罪を持っています。しかし聖書は、キリストによって新しくされた人は、過去にしばられたままで終わらず、変わることが出来ると教えています。「古いものは過ぎ去った」とは、罪に支配されていた生き方、自分中心の考え、恐れや絶望にとらわれていた心が、キリストによって変えられていくことです。すぐに全部が完全になるわけではありません。しかし昨日までの自分と同じように見えても、神さまの前ではもう新しい者として歩み始め変わり始めているのです。自分の力だけで新しくなるのではなく、キリストに結ばれて生きるとき、神さまが与えてくださる新しい恵みに目を向けて歩むことができます。そこに、信仰の大きな希望があります。
アーカイブ | 3月 2026
2026年3月22日
エゼキエルは谷が骨だらけになっている幻を見ます。この幻の骨たちは、生きているのに生きる希望を持つことが出来なくなっている人々の象徴です。 しかし神さまはエゼキエルを通して、骨たちに向かって「主の言葉を聞け」と言われます。希望が失われており、もはや回復の余地が見当たらない、終わりをむかえた枯れた骨のような人であっても、神さまは復活の希望によって、新しい命を与えて下さいます。人間の目には遅すぎる、無駄、手遅れだと思われても、神様は枯れた骨すら復活させて下さるという希望は、聞くものと語るもの両方に対する励ましです。自分の力で生き返るのではなく、まず「主の言葉を聞け」と神さまは呼びかけておられます。熱心な信仰があるから生き返るのではなく、神様の言葉を通してだんだんと新しい命が組み上がり、ついに神様を信じる心が形作られます。神様は、神様を知らず、信じる心を持てず、希望なき枯れた骨のような人を愛によって新しい命へと招き、人の望みなきところに神様の希望を伝えようとする人を励まして下さる方です。
2026年3月15日
人はだれでも、これからのこと、体のこと、家族のこと、生活のことなど、いろいろな心配をかかえます。そうした重い気持ちを、自分ひとりで持ち続けなくてよい、と聖書は教えています。なによりも神さまが私たちのことを心にかけておられるからです。神さまは私たちの苦しみも不安も知っていて、受け止めてくださる方です。だから、苦しいときには、祈りの中で正直に神さまに打ち明けてよいのです。けれども、ただ安心するだけで終わりではありません。「身を慎み、目を覚ましていなさい」と言われています。心が弱っているとき、人は誘惑に負けやすくなり、神さまから心が離れやすくなります。そこで聖書は、落ち着いて、自分の心を守り、信仰にしっかり立つように勧めます。悲しみや不安、疑いや恐れを通して、信仰がくずされそうになることもあるでしょう。そのようなときにも、神さまに信頼して立ち続けなさい、と聖書は励ましています。聖書は心配を神さまにゆだね、心の目を覚まして歩み、信仰に堅く立つようにと、やさしく、しかし力強く教えています。
2026年3月8日
イエスさまは十字架の苦しみを、ただの悲しい出来事としてではなく、私たち人間を救うために必要な手段として受け入れてくださいました。けれども、イエスさまは、「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。イエスさまは、深く心を痛められたのです。人間が苦しみの中で心を騒がせる時、イエスさまはその思いをよく分かってくださいます。しかしイエスさまは、十字架の苦しみから逃げず「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言われました。イエスさまは、父なる神さまのみこころに従い、十字架へ進まれたのです。十字架は、一見すると敗北のように見えます。けれど聖書は、そこに神さまの大きな愛があると教えます。罪赦され、神さまのもとに帰る道が開かれたのです。イエスさまの「この時のために来た」ということばには、私たちを救いたいという強い愛が込められています。心が騒ぐ時にも、十字架の救い主は私たちを見捨てません。私たちのために苦しみを通られた主だからこそ、弱い私たちを支え、救いへと導いてくださるのです。
2026年3月1日
人は誰でも、「認められたい」「大切に扱われたい」という願いを持っています。この願いは、何事かを一生懸命頑張る力にもなります。しかし同時に、評価や立場をめぐって疲れさせ、自分や相手を傷付けてしまうこともあります。そんな人々に対してイエスさまは「仕えられるのではなく仕える」生き方が大切だと教えておられます。イエス様の言う「仕える」とは、「相手のために自分を用いる」生き方です。自分が中心になって人を動かすのではなく、目の前の人が生きやすくなるように動き、強さを誇らず弱さに寄り添うということです。力ではなく、愛で人を支える生き方です。恐れ、自己否定、恨み、見栄、やめたいのにやめられない習慣などから解放するため、イエス様は力づくではなく、自分の命を差し出すほどの愛によって解こうとしました。イエス様は「自分が満たされてから与える」ではなく、「与えることで人を自由にする」生き方を示されました。イエス様と共に一歩踏み出すとき、争いの不安から自由となり、自ずと認め合うことが出来る喜びを見いだすことが出来るのではないでしょうか。