アーカイブ | 2月 2025

2025年2月23日

エゼキエル書47章では、神殿から流れ出る川の流れという幻が記されています。この章の表現は、預言者エゼキエルが見た幻の一部ですから、ここに記されている内容が文字通りそのまま実現するというよりも、ここに記されている幻の内容を通して、荒れ果てた世界が、神さまの恵みによって回復するという希望が示されているようです。エゼキエル書では、神の民イスラエル(ユダ)の国がバビロニア帝国に滅ぼされ、人々が首都バビロンへと強制連行、強制労働を強いられるバビロン捕囚が起きること、そしてその苦難の後に再び神の民が生き生きと生きる事が出来る場所が神さまによって与えられることが約束されています。47章1-12節の表現では、神さまを礼拝するところから、川が流れ出て全世界を潤し、死海をも命に満ちる場所へと変えるという光景が記されています。イエス様は、ヨハネ福音書7章:38-39節でイエス様を信じる人の内から「生きた水が川となって流れる」と言っておられます。これはエゼキエル書47章で表現されている神殿が、建物や場所ではなく、イエス様を信じ、十字架の赦しの愛に生きる人々そのものであり、イエス様を信じて生きる人の人生は、自らのみならず隣人をも生かし、新しい命に満たす神さまの恵みが広がって行くことが示されているようです。水源は小さく上流の流れは細くても、細い流れは合流して大河となり、広く世界を潤し豊かな実を結びます。私たち一人一人の働きは小さく、細いものだとしても、神さまは世界を命で満たす働きのために用いて下さる方です。

2025年2月16日

雪国の2月は、雪と氷で大地が覆われるので、草花の姿を見ることは出来ません。美しい白い大地は、死の大地でもあります。しかし、4月後半になり雪がとけて気温が上がり始めると、大地から新たな命が芽生え始め、5月にはあちこちで一斉に花が開きます。4月後半から5月前半には梅と桜が同時に咲いて、あっという間に散ります。短い期間ですが、花たちは実を作り、また次の季節には新たな花を咲かせます。30節のイエス様のお話に出てくる野の草は、炉に投げ込まれます。当時は野の草花が燃料として使われていたのです。もしイエス様が雪国にお生まれになっていたら、野の草は氷の下に枯れ果てる、と表現したでしょうか。しかし、どこの草花もイエス様のおっしゃるとおり、明日には命がなくなるとしても、終わりの日まで日々必要なものに満たされています。神さまのご配慮は草花にさえ及んでいるのであるから、人間についてはなおさらご配慮下さっているはずです。信仰のうすい者よ、とのイエス様のご指摘をいただけば、申し訳ない気持ちにもなりますが、同時に薄さに気付けば、こゆくもなれる、と励まされているようにも思われます。だから先の事を心配して不安になるのではなく、神さまが必要なものを満たして下さると信頼し、平安のうちに日々、こゆーく生きて行きたいものです。

2025年2月9日

12歳というのは、小学6年生から中学1年生にあたります。まだまだ可愛い子ども時代ではありますが、多くの人は第二次反抗期とも言われる時期にあたります。イエス様にも反抗期があったのでしょうか?あれこれ理屈をいう年齢の子どもに対して、親は悩み深くなることがあるかも知れません。ルカによる福音書2章50節の出来事によれば、イエス様の両親であるマリアとヨセフも、イエス様の言動に悩まされたようです。マリアとヨセフほどの立派な信仰者、人格者であったとしても、子育ての悩みはあったということは、悩める親たちにとっては大いに慰めになるのではないでしょうか。イエス様が12歳の時に両親と、おそらくナザレ村の親戚たちや、ご近所の人たちと共にエルサレム神殿へと巡礼に行きます。ところが、帰りの集団の中にイエス様がいませんでした。慌てて探し回ると、エルサレム神殿の境内で大人達と一緒に聖書の内容について議論をしていたのだそうです。心配して叱る親に対してイエス様は、自分は神さまの子どもなのだから、親である神さまのいる神殿にいるのは当然だと答えます。50節によれば、両親はイエス様の言っていることの意味が分かりませんでした。もしかすると愛する我が子が神の子、救い主として苦難の道を歩むことを理解したくなかったのかも知れません。子どもはしばしば親の願いを超えて、自分自身の人生を生きるものです。イエス様が両親に向かって語った言葉には、人には誰でも、親の願い通りではなくとも、神さまが与えられている人生が備えられていることが示されているのかも知れません。

2025年2月2日

新約聖書ではイエス様の十字架の救いのことを「福音」と表現しています。この表現は原文のギリシア語では「エウアンゲリオン」という単語で、直訳だと「良い知らせ」という意味です。「エウアンゲリオン」を「福音」と訳するようになったのは、中国語訳聖書の影響とされています。中国語における「音」という文字には、「声」という意味があり、そこから派生して「知らせ」という意味でも使われるのだそうです。しかし翻訳上の都合というだけではなく、ヨハネ黙示録14章2節では、神さまの声は音としても表現されています。大水のとどろき、あるいは雷鳴は、自然現象を通して語りかけておられる神さまの声であり、時には人間の罪深さに対して厳しくとがめ、悔い改めを迫る怒りの声でもあります。しかし同時に神さまを信頼し、謙遜に生きようとする人にとっては、竪琴の美しい音のような調和が感じられる音であり、赦しと救いを告げる良き声、良き知らせでもあります。悔い改めと赦しの愛を伝える、救いの良き知らせは、イエス様の弟子たちから始まり、多くの宣教師たちを通して現在に至るまで、日本中で伝え続けられています。