アーカイブ | 8月 2020

2020年8月30日

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタイ7:17-18)。私たちは、良い木ではありません。アダムの罪をそのまま受け継いでいますから、私たちはみな罪人です。罪人の私は、自分の罪が分かりません。自分が何をしているのかも分かりません。なんと惨めなことでしょうか(ローマ7:34)。自分の惨めな姿が分かるのは、罪から救いだされたときです。イエス様を知って、心の中も、口に出す言葉も、行いも、みな神様の背いていることを知ります。悪い木が良い木になれるのでしょうか。それは、生まれかわるより、ありません。バプテスマを受け、聖餐に与り、イエス様に新しくしていただくのです。

2020年8月23日

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)神様に背いてアダムとエバは、神様に対して顔を向けられなくなり、隠れました。エバは、アダムに責任を押しつけ、アダムは、蛇に自分の罪をなすりつけました。それは、みな神様が悪いと言わんばかりでした。 このような罪によって、神様との交わりを失い、人と人との正しい交わりを失い、人は、体の死、魂の死に向かっていかねばならなくなりました。そして、サタンとの戦いを続けていかねばならなくなりました。さらに、与えられた自由を正しく使えない者となりました。その責任は、みな人間の側にあります。責任をとらねばならないのは人間ですが、とりようもないのです。誰も負うことのできない責任を誰が負って下さったか、です。

2020年8月16日

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2:15-17)

神様は、天地万物を創造され、最後に人間をつくられました。それらは極めて良かったと創世記1章の終わりに記されています。特に 人間には自由を与えました。それは神様に対する責任も与えられたということでした。創造されたアダムは、エデンの園にあって自由にふるまうことを許されていました。ただ一つの制限がありました。このみ言葉の通りです。与えられた自由を自分のために用いるならば、必ず死んでしまうのです。食べてはならない木、それは神様との一線です。守らなければならないことがありました。この一線を越えてしまったところから罪に陥りました。この罪が全ての罪を生み出す源となりました。罪とは、神様に背いて、神様から離れていくことです。

2020年8月9日

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)。

神様は、人を創造されました。「神のかたち」につくられたとは、私たちが神様と人格的に交わることができるようにつくられたということです。創造主と被造物であるものが向かい合いようにして、責任と自由を持って向かい合い存在としておかれているとは、素晴らしいことです。神様が私たちに呼びかけ、私たちはお応えします。私たちも神様に呼びかけ、神様はお応え下さいます。神様と私の関係でも、神様と私たちの関係でもそれはたえずなされています。一番よくそれが現われているのは、礼拝です。神様が一方的に下さった恵みの時です。私たちに与えられた「神のかたち」に感謝します。