アーカイブ | 1月 2022

2022年1月30日

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』」。(ヨハネ7:37-38)
仮庵の祭りの最終日です。一番盛大に行われる日です。祭司たちが人々に向って、シロアムの池からくんできた水をまきます。「神様の水だ」と人々は叫び、ありがたさでいっぱいになりました。その時、イエス様は、人々の中で立ち上がって、冒頭の言葉を大きな声で言われました。誰でも渇いている人は来なさい、いつでも飲みなさい。わたしを信じる者に与えられる神様の霊をいただきなさいと言われました。いただいた者は、その腹から、内側から何本もの生ける水が流れ出ることになると言われました。私たちは、イエス様と出会い、イエス様を信じ、イエス様と生きる者とさせていただきました。何本もの生きた水は、イエス様から与えられた、あふれ出て、流れ出ます。喜びとか感謝とか生きがいになって、それが分かち合われ、人々に本当の潤いをもたらします。生きた水とは聖霊のことです。聖霊は、弁護者とも言われています。イエス様がいつも共におられ、励まして下さるのです。

2022年1月23日

「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」(コヘレト1:13-14)
多くの知恵や知識は空しいものなのでしょうか。人生の中で経験することは空しいものなのでしょうか。空しいとは、役に立たない、無駄という意味ですが、本当にそうなのか、一人一人が最後に答えを出さなければならない時が来ると思います。その「時」は突然やってくると思います。その「時」に備えなければなりません。だから、イエス様は、いつも目を覚ましていなさいと言われたのだと思います。

2022年1月16日

食べてなくなってしまうパンを用いて、イエス様は本当の命のパンをいただく喜びを教えてくださいました。イエス様こそが命のパン。残ったパンくずは、集められ、また用いられます。何度も用いられます。

2022年1月9日

十字架で死ぬことがイエス様の目指す栄光です。十字架を通って復活に与るのです。その歩みを始めようとした時、結婚式に招かれ、ぶどう酒がなくなったのです。奇跡を望む人が現れました。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った」(ヨハネ2:3)。イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」(2:4)とお答えになりました。イエス様にとりましては、水をぶどう酒にかえることは簡単なことだと思いますが、それはイエス様のお考えではありません。しかし、イエス様はその願いをお聞きくださいました。大体のして私たちの願いは、イエス様のお考えとは違うのでしょう。それでもイエス様は、人に仕えてくださるのです。それが神の子のしるしなのです。

2022年1月2日

イエス様ご降誕のクリスマスは大きな喜びです。しかし、マタイ福音書2章後半になると、一転して悲しみに変わります。2章16節「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあります。そして、エレミヤが預言した言葉が実現したと言われています。エレミヤは、イスラエル滅亡、バビロン捕囚の嘆き悲しみを預言したのですが、マタイ福音書は、それと重ねたのです。イエス様は、難を逃れましたが、どれだけの子が殺されたことでしょう。これは、神様の御計画ではなく、人間の罪がしたことです。