アーカイブ | 3月 2023

2023年3月26日

イエス様は、ルカ福音書8章などに記された「種まく人のたとえ」で、種を神様のお言葉に、大地を人の心や人生の状況になぞらえておられます。しかし、ヨハネ福音書15章5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と、イエス様と私たち人間が一つにつながって生きる植物になぞらえられています。宣教者パウロは、大地をキリスト、そこに根を下ろす植物を、私たち人間になぞらえています。こうした植物のなぞらえに共通しているのは、どれも暖かな春に起きるということです。ただし、聖書の世界であるイスラエルを含む地域特有の気候として、3月の春からはほとんど雨の降らない乾期が始まります。植物は根をしっかりと下ろして、命の水を大地から吸い上げなければなりません。新しい命は暖かさの中から始まり育まれます。同時に、身体を作り上げ成長する為の水や栄養を、十分に受け取る必要もあるのです。命の力に満ちたイエス・キリストから恵みの力を豊かにいただく人は、信仰がますます成長していきます。その結果、感謝があふれるばかりに豊かに実る人生となるのです。

2023年3月19日

イエス様はルカ福音書8章5節で「種を蒔く人のたとえ」としてお話ししておられます。つまり、このたとえ話は、種になぞらえられている人間の性質とか、信仰が実を結ぶようになるかどうか、ということ以前に、神さまの赦しの愛、救いの恵みを種まきのように語り伝える人がどのような存在なのかと言うことが語られているようです。種まきをする人は、わざわざ耕していない土地や、道ばたに種まきをしたりはしないものです。良く耕した土地に種は蒔かれます。しかし、それでも小さな種は、思った通りの場所ではないところに落ちるのです。それでも種蒔く人は、種を蒔きます。芽が出ない場所に蒔かれたものが実を結ぶと期待してではなく、蒔くべくして蒔いたものが必ず実を結ぶと期待しているからです。種蒔く人は、季節が巡ればまた種を蒔きます。再び豊かな実が実ると期待し、新しく耕された畑に種は蒔かれ続けます。神さまの愛を語り伝えるイエス様の言葉は、何度でも語り伝え、人を新たに清め、救い続ける、恵み深い言葉です。

2023年3月12日

家畜化された羊は、自分の毛が伸びすぎると人の手で刈ってもらわないと、身体に汚れがたまり、健康を損ないます。羊は、同じ場所の草を食べ続けるという習性がみられるので、羊飼いは草がなくなる前に、群れを連れて移動し続けます。狼に襲われると、反撃することができずに散り散りに逃げ出します。羊飼いは、杖や鞭を使い、狼を追い払います。ですから、羊飼いがいない羊の群れは、とても困ってしまうでしょう。人間は羊とは違い、自分で身体の手入れを行い、自分で食事の準備をし、自分で危険に備えることが出来ます。しかし、心や人生という、目に見えない事柄では、何が自分に必要なのかも解らず、思いがけず傷つき、癒し方を知らずに病むことがあります。集まった人々をご覧になるイエス様は、人々の姿を羊飼いのいない羊の群れのように感じ、深く憐れんで下さいます。そして、神さまの言葉によって慰め、励まし、奇跡を伴う働きによって、人々の人生に健やかさを与え、痛みを癒し続けて下さいます。イエス様は人々の羊飼いなのです。

2023年3月5日

新約聖書においてファリサイ派は、「偽善者」と呼ばれることもあり、悪人の代表のような印象を持たれることもあるかも知れません。しかし、多くのファリサイ派は真面目で立派な人々でした。彼らは庶民階級の代表であり、腐敗した宗教者に対抗して、聖なる生活を志す信徒たちの代表的存在でした。だから当時、多くの人々がファリサイ派に加わったのです。しかし、自分たちが聖なる生活を志しているという自負が、そうではない人々を蔑むという高慢さを引き起こすこともありました。これは、キリスト者にも起こりうる問題です。神様を信じる人は、神様と1対1の人格的関係に生きる人です。誰かと比較して信仰や正しい生活の優劣を気にしたりしません。神様からいただく赦しの愛をいただき、隣人を自分のように愛する新しい命に生きる人へと変えられ続けるのです。