アーカイブ | 6月 2022

2022年6月26日

同じような出来事があっても、感謝を言葉にするタイミングは、人によって違うことがあります。言葉にしなくても、行動で示そうとする人もいます。コンビニのレジで店員に「ありがとう」という人もいますし、そうすべき理由はないという人もいます。挨拶の一種と考えて感謝をする人もいれば、自分が与えた以上、期待した以上のものを提供された場合に感謝するという人もいます。一方、感謝されるべきと感じる時も、人によって違います。自分が感謝するタイミングと、感謝されたいタイミングが違うときもあるでしょう。しかし、自分がして欲しい時に感謝されなくても気にしないこと、それどころか自分がしたことは当然だから感謝は不要と言うようにと、イエス様は教えておられます。これは5節「信仰を増す」ための教えの一部です。神様に対しても、隣人に対しても、精神的な報いとしての感謝を求めずとも、自分の仕事の価値は正しく評価されると信じて誠実に働く人は、正しく報われます。

2022年6月19日

旧約聖書の言葉で、イエス様たちの母国語であるヘブライ語(アラム語)では「お父さん」のことを「アブ」とか「アバ」と言います。イエス様の時代には、成人が自分の父親を呼ぶときの表現として一般的に使われていたようですが、もともとは幼児語で「お父ちゃん」ぐらいの砕けた表現であったようです。幼子が父親を「アバ」と呼ぶのは、我が子にそう呼ばれることを望む父親の愛があるからです。聖書の神様は、私たち人間のことをそれくらい愛しておられる、とイエス様は教えておられるようです。しかし、この愛の関係は人間が良い子だからとか努力してそうなったのではなく、神様の霊である聖霊の働きによってそうしていただいたのだとパウロは言います。この聖霊の働きによって、人は神様からの罰を恐れるが故に命令に聞き従うのではなく、自由な自発的な喜びによって神様の言葉を実行するようになります。鳥が飛び方を、獣が獲物の捕り方を親からならうように、私たちが天の父なる神様から、人生を活き活きと生きる道を示されているのです。

2022年6月12日

同じ出来事を記した、マタイ19:13-15とマルコ10:13-16では「子ども」は「パイディア」という単語です。「パイディア」は現在でいうとだいたい小学生以下の幼な子を意味します。一方ルカ18:15では「乳飲み子(ブレフォス)」とあります。赤ちゃんです。イエス様のお話を聞いてもさっぱり解らなかったでしょう。16-17節のイエス様の言葉では「子ども(パイディア)」をわたしのところに来させなさい、とおっしゃいます。ちょっとだけ解りそうな人も、まったく解らない人も、誰かに連れてこられた人も、来たい人はみな来なさい、来た人はみな近寄りなさい、とイエス様はおっしゃいます。あれこれと複雑に考えて、自分が完全に納得しないと信じないという人ではなく、神様のこととかさっぱり、ちょっぴりしかわからないけど、なんかイエス様は優しそう、良さそうだから近づいてみよう、という子どものような人が神の国を受け継ぐ、とイエス様は教えておられます。恐れなく近寄れ。神の愛は何人も妨げること能わず。

2022年6月5日

本日は、キリスト教三大記念日の一つ、ペンテコステ礼拝です。ペンテコステは新約聖書の言葉、ギリシア語で「50番目」を意味しており、イースターから50日目にあたります。使徒言行録2章によれば、ペンテコステの日に、集まっていたキリスト者たちに聖霊が降り、キリスト教会としての活動が始まりました。ですから、ペンテコステはキリスト教会の誕生日でもあります。聖書では、聖霊に満たされた人は、異言や預言を語るようになります。つまり、神様のことについて、誰かに何を話したくなってたまらない状態になるということです。私たちが神様について話したくなるときは、聖霊に満たされているのかも知れません。