アーカイブ | 9月 2023

2023年9月24日

21世紀も5分の1が過ぎましたが、今のところ鉄腕アトムのような人間のような人格を持ち、空を自由に駆け回る人型ロボットはおりませんし、空飛ぶ自動車が空に浮かぶチューブ型道路の中を走る世界にはなっていないようです。しかし、パソコンやスマートフォンなどの携帯機器が発達し、ドローンは段々大型のものが作られ、核融合炉の稼働も始まりつつあります。過去に思い描いていた未来と現在の姿は、おそらくアイデアは重なるところがあれども、見た目は違っているし、思ったようにはなっていないでしょう。大阪城は何度も建て直されていますが、現在は豊臣秀吉がいたころのままではなく、鉄筋コンクリートで作られ、エレベーターがあります。古き良き趣を残しつつ、最新の技術を用いて、登城者に使いやすい作りになっているのは素晴らしいことです。エルサレムの神殿も何度か作り直されました。エズラ記の時代に作り直された第二神殿を見た人々には2つの反応があったようです。昔を知る人は、昔の通りの大きさ、装飾ではないと嘆き、昔を知らない人は、話に聞いていたあこがれの神殿をとうとう再建できたと喜びました。温故知新。神さまは前の時代の良きものを用いて、新しい良きものを作るための力を与えて下さる方です。神さまは人類を祝福しておられます。

2023年9月17日

よく人が使う道ほど広く作られ、より太く拡張されます。しかし天国への道は、あまり人が行かず、細い道であるとイエス様は言っておられます。道である以上、整備はされており、草むらを歩くよりは歩きやすいはずです。しかし、風で飛ばされた枯れ葉が積もっていたり、アスファルトのひび割れから野太い雑草が生えていたり、崖から落ちてきた石がごろりと転がっており、前を見ずによそ見をしていると、つまずいて痛い思いをする、歩きにくいところもある道かも知れません。田舎の細い道は、夜になると外灯もなく、手元の灯りがなければ月や星の光を頼りに歩くことになります。天国への道とはこのような細い道なのかも知れません。空港の自動的に動くエスカレーター型の道や、何車線もある広々とした国道とは違い、多くの人はその存在を知らず、通る人は少ない道が、天国の道です。世界総人口の3分の1がキリスト教徒であり、キリスト者は、更に多くの人がイエス様を信じて、天国への道を歩んで欲しいと願っています。しかし多くの人は、本当にイエス様を信じているのではなく、文化の一部としてキリスト教を信じていることにしているのかも知れません。自分を愛するように隣人を愛そうとする人が天国への細道を行く人です。つまずきはあれども、まっすぐ天国へ至る道です。

2023年9月10日

新約聖書の言葉であるギリシア語では、「愛」はその内容に応じて4つの単語が用いられます。家族愛の「ストルゲー」友愛の「フィリア」性愛の「エロス」そして神の愛「アガペー」です。これらの区別は、大雑把なものであり、実際のギリシア語では友情と思われる愛を「エロス」で表現したり、家族愛を「アガペー」と表現することもあったようです。しかし、聖書記者は「アガペー」の愛を神さまが人間に向ける、特別な尊い愛として使いました。新約聖書学者レオン・モリスは、新約聖書における「アガペー」の愛は、見返りを求めず自分を相手に与えようとする情熱のことだと説明しています。イエス様が「互いに愛しなさい」といっておられる時の愛は、この「アガペー」の愛です。相手の持つ何かを自分の益のために求めるのではなく、自分が相手から愛されようとすることではなく、自分自身が相手を愛そうとする愛を、互いに向けるように、とイエス様は言っておられます。新約聖書はこの愛は、神さまが人間に向ける特別な愛として用いながらも、神さまを信頼し、イエス様の言葉によって導かれる人は、一人一人の心に与えられ、備えられている神さまの愛を、その人自身も現すことが出来るようになる、と教えています。この「アガペー」の愛で互いに愛し合う人間関係の只中に、救い主であるイエス様の示された十字架の愛が現れるのだと、聖書は教えています。

2023年9月3日

誰かに何かの働きをお任せしたい時、実際はどうあれ、「できるかどうかわかりません。上手くやれる自信がありません。」と言われるよりは「できます、やれます」と自信たっぷりに言われた方が、安心してお任せすることができるでしょう。人が健やかな心の状態を保つためには、自分自身に満足出来るという点で自信や誇りを持つことが欠かせません。しかし、自分が自信や誇りを持とうとして、他の人を貶めたり、蔑んだり、自分よりも相手を下にしようとするときは注意が必要です。相対的に相手を下げたところで、実際は自分自身の力は何一つ上がってはいないからです。イエス様は、偉くなりたい人は、しもべになるように、と教えておられます。「しもべ」と訳されたギリシア語「ドゥーロス」は、召使いという意味だけではなく、奴隷という意味でもつかわれています。奴隷という表現は、自分自身の働きに対する報酬を先に受けている人の象徴的表現です。神さまから命という恵みをいただいていると信じる人は、その感謝を隣人に対してお仕えすることで少しでもお返ししたいと思うものです。イエス様は「一番上になりたい」という名誉を求める心を否定されていません。しかし、評価は他人が決めるものです。人を下げるのではなく、自らが身をかがめて人の下で仕える時、人として大きく成長し、賞賛を受けることになるのだと、聖書は教えているようです。