アーカイブ | 10月 2022

2022年10月30日

イザヤ書43章は、旧約聖書の舞台であるイスラエル/ユダ王国が滅び、故郷から強制的に人々が移住させられた、バビロン捕囚後の人々に向けて記された言葉です。侵略を受けて破壊された日々の生活を思い出し、慣れぬ異国の地で苦労する人々は、自分たちは神様から見捨てられた存在であると感じ、悲しみに満ちていたことでしょう。しかし、神様は人々を見捨てたのではなく、罪深さを打ち砕き、罪から清めたのでした。金銀は精錬されて、宝石はカットされ、磨き上げられて本来備わっていた輝きを得ます。神様は人を価値高く、尊いと思うからこそ、人を清める試練の炎は強く、罪深さを取り去るのです。

2022年10月23日

聖書を読むことが神様からの言葉を聞くこととすれば、祈りは、神様に向かって語りかける時間です。会話は一方的ではなく、相互の関係によって成立します。ですから、聖書と祈りは切り離せません。テモテ第一2:1にある「願い」「祈り」「執り成し」「感謝」は、どれも祈りと訳すことが出来る言葉です。このような祈りは、自分のためや、家族や仲間のためだけではなく、「全ての人のために」、続く2節では、王や高官たち、キリスト教信仰を持たない世俗の為政者たちのためにも祈りなさい、と聖書は言います。政治、思想、宗教の違いがあっても、神様は全ての人を愛しておられ、救われて欲しいと願っておられます。

2022年10月16日

イザヤ書11章は「エッサイの株からひとつの芽が萌え出で・・・」という言葉から始まります。これはイエス様についての預言であったと、キリスト教会は信じています。6-9節では、肉食獣と草食獣が共に仲良く生活するという幻が描かれます。人間社会は、国と国、民族と民族、さまざまな対立があり、争いが絶えません。強い者が弱い者を食らう弱肉強食はどこにでも見られます。しかし、イエス様はそのような世界に平和と調和をもたらすために来られたと聖書は教えています。

2022年10月9日

マタイによる福音書11章17節は、当時の「あまのじゃく」を意味する格言として用いられていたのかも知れません。バプテスマのヨハネは修行としてしばしば断食しましたが、その姿は「悪霊にとりつかれている」と馬鹿にされました。ところが逆に、イエス様があまり断食をせず、多くの人々と会食を楽しむと、「大食漢で大酒のみだ」と欲深だと馬鹿にされました。世の中の評判は、内容の良し悪しではなく、相手に対する印象で決まったり、先に攻撃しようという悪意によって、評価がねじ曲がったりします。しかし、神様の救いの働きは、まっすぐ進みます。人がなんと言おうと、正しく生きる人を、神様は助けて下さるのです。

2022年10月2日

災害や戦争、人間にとっての災いは尽きることはありません。しかし、神様がこの世界を造られた時、全ては良いものであった、と聖書は言っています。この世界に災いが認識されるようになったのは、人が神様の忠告を無視して、善悪の知識の木の実を食べた後からです。人間が欲望に身を委ねて、自己中心になった時に、あらゆる良いものの中に、悪が生じたのでした。科学技術も自然も、それ自体は良いものでも、人が自己中心の欲望に支配されると、悪となることがあります。原子力技術は、その最たるものかも知れません。しかし、イエス様は十字架で自らを献げる姿を通して、人が自己中心の罪から解放される道をお示し下さいました。人が救われるとき、人だけではなく、世界もまた良いものとして生まれ変わるのです。