イエス様が男だけで数千人もの人々に対して、わずかなはずのパンと魚を分け与えた結果、それを受け取った全ての人々が満腹したという奇跡は、新約聖書の4つの福音書全てに記されています。集った人に食事を分け与えるということは、イエス様が教えて下さった神さまの愛を最もよく示すことが出来ることなのかも知れません。イエス様は食事を分け与えると言うことが、神さまの御心に適うことであることを示すために、神さまの力を用いて奇跡によってパンと魚を人々に与えました。しかし、後のキリスト教会では奇跡の力がなくても、一人一人が神さまから与えられていると信じる日々の糧の中から誰かに分け与えることによって、ますます多くの人々を助けることが出来ることを教え続けてきました。イエス様は人々が、何事も奇跡で解決し、神さま任せにするのではなく、必要なものが神さまの導きによってすでに分け与えられると信じて祈りつつ、イエス様を信じて共に生きる人々が自ら、それぞれの力に応じて分け与える生き方を求めておられます。
アーカイブ | 6月 2025
2025年6月22日
詩やダジャレは、目的は異なりますが、音が同じ言葉を選んで一つの文章とする言葉の技術の一つです。こうした言葉の技術は、聞き手、読み手に伝えたい内容をより強く印象付ける効果があります。アモス書8章1-2節では、ヘブライ語で夏の果物を「カイツ」、終わりを「ケーツ」と言い、似た音の言葉を重ねています。「ケーツ」は「限界」という意味でも使われる言葉で、神の民が生きる国が、不正や不法に満ちて悔い改めもなく、もはや神さまの御心にかなう社会をつくるという理念が失われ、国としての限界に来ていると警告されています。イスラエルの夏は、乾季の盛りであって、水が不足しがちで苦しい時期でありますが、乾燥に強い果実の収穫の時期ともなります。夏の果実は水分補給のためにも用いられ人々の命を助けました。しかし、果実はきちんと収穫し食べないままにしておけば熟して腐り落ちてしまいます。苦しみの中にも神さまの救いの道は備えられています。しかし悔い改め、救われる機会を逃してしまえば、手遅れになってしまいます。適切な時に果物を収穫するように、悔い改めて救われる恵みを手遅れにしないようにと、アモス書では教えられています。
20250622主日礼拝
20250615主日礼拝
2025年6月15日
ペンテコステの次の週に当たる本日は、キリスト教会の伝統的な暦だと「三位一体」主日と呼ばれています。8世紀ごろから西ヨーロッパの教会で始まり、14世紀に時のローマ教皇によって正式に定められました。「三位一体」という考え方は、神様はお一人だけれども、父なる神、子なる神であるイエス様、そして聖霊として働かれる神という三つの個別の人格として、この世界に関わっておられる、という伝統的な信仰です。この三位一体の考え方が教会の信仰の基礎となった理由には、長い間キリスト教会が、それぞれの礼拝や信仰生活の中で父、子、聖霊の神について、それぞれ独自に強調しており、例えば、うちの教会では父なる神様ばかりを信じ、あちらの教会では聖霊の神様ばかりを強調していて、一緒に集まると同じ神様を信じているのかどうか疑わしい、とケンカする理由になっていたからです。そこで、父、子、聖霊はみな同じ神様だから、仲良くしましょう、ということにしたのです。つまり三位一体の教えは仲良しの教えなのです。
2025年6月1日
イエス様の癒やしの奇跡には、病気や障害それ自体に対する癒やしという意味と、内面性や社会性など目に見えない部分の癒しという意味が重ねられています。ルカによる福音書18章35–43節は目の見えない人の癒しの奇跡が記されています。しかし、この前の34節では弟子たちがイエス様のお言葉を理解出来なかった、という言葉で終わっています。心の目が見えておらず、神さまの言葉に心が開いていない状態だったのです。この時の弟子たちはイエス様をユダヤの社会的、政治的改革者として求めていたのかも知れません。自分の欲望を満たすための都合の良い救い主を求めている時、人の心の目は見えなくなっているのでしょう。しかし目の見えない人はイエス様を神さまの子ども、全ての人の救い主だと信じてひたむきに癒しを求めました。この人の目が癒され開かれた姿を通して、弟子たちの閉じられていた心の目も開かれ、自分の欲望を満たすためではなく、魂に救いを与えて下さる神さまのお働きに目が開かれていったのではないでしょうか。