アーカイブ | 9月 2025

2025年9月28日

イエス様は、群れから迷い出た一匹の羊、家の中でなくした銀貨、家の財産を使い潰した息子、これらの価値あるものが、失われたと思っていたのに見つかる時、大いに喜ぶように、神さまは罪人が救われることを喜んで下さる方だと教えておられます。このような発見のたとえ話は、失われていたと思えても、実は本当に消えてなくなったのではなく、人間の側が自分の都合で神さまから離れて、その愛が見えなくなっていただけであり、神さまから近づき、探してくださってので、もう一度神さまの子どもとして、本来在るべきところに収まったのであり、必ずあると思ってなんとしても見つけようとして下さる神さまの、忍耐強い愛が示されています。しかし、今日の箇所ではむしろ人間の側が探すようにと教えられています。人間が何か足りないと思って追い求めている幸いの本質は、すでに神さまによって恵みとして備えられており、そう信じて探し続けるときに、発見することが出来るのだと教えられているようです。

2025年9月21日

癒された人々が夕方に来た理由については、色々な理由が考えられます。先ずこの日は安息日の日だったようです。ユダヤの一日の考え方は、日没から日没までです。日没後は次の日の始まりなので、夕方の日没後であれば安息日が終わり、新しい一週間が始まります。安息日が終わっているのだから、人々は安息日の違反行為として労働をしていると見なされることなく、安心して癒されることができました。次に、悪霊や病気の人は、当時の人々から汚れている、罪深いと見なされることがあったので、人目を開けて夕方にイエス様のところにやってきた、という理由があったのかも知れません。三つ目に、夕方は終わりの象徴でした。病気や悪霊に悩む人生が、イエス様との出会いによって終わり、神さまの愛によって新しい人生が始まったことを示しているのかも知れません。日本の文学の中では、日中が少なくなる秋は、夕暮れに重ねられ、悲しさや寂しさの表現として使われることがあります。しかし、イエス様の秋の夕暮れは、悲しみの終わりであり、喜びが始まる時なのかも知れません。

2025年9月14日

イエス様はたとえ話の中で、社会のなかで蔑まれ、孤立している罪深い人を、羊の群れからはぐれた一匹の羊になぞらえました。はぐれた羊は、羊飼いによって見つけられ助けられるのですが、助けられてなお一匹のままではなく、群れへと戻されます。罪深い者もまた、神さまによって救われ、悔い改めた後、同じ神さまによって養われる人々の中へと導かれていきます。このたとえ話の中では、残る99匹の羊の群れは、罪を犯していない正しい人の象徴でもあります。この正しい人々は、悔い改めた罪人を仲間として受け入れることが出来る神さまの愛による正しさに生きる人々です。しかし、99匹の羊たちも、別の時には迷い出る一匹の羊となる可能性があります。あるいは、99匹の羊たちもまた、かつては迷い出て再び連れ戻された一匹の羊であったのかも知れません。天にある大きな喜びは、神さまの喜びというだけではなく、神さまを信じ、共に生きる全ての存在が、自分自身のように喜ぶことが出来る、共同体全体の喜び、羊の群れ全体の喜びでもあるのかも知れません。迷える羊が、今日もイエス様によって導かれると信じます。

2025年9月7日

聖書の世界パレスチナ地方でも、9月がぶどうの季節です。麦は、秋に蒔かれて、春に収穫されます。詩編4編8節の言葉は、春と秋、二つの季節に共通する収穫の喜びを表現しています。続く9節では、平和と睡眠という表現が出てきます。収穫は喜びですが肉体的には疲れる仕事です。豊かに収穫できたからこそ、安心して疲れた身体を休めることが出来ます。もし不作であれば心穏やかならず、身体も心も十分に休めることが出来ないこともあるでしょう。だから聖書の信仰者たちは、実りの豊かさは、自分たちの努力や農業技術の結果だけだと思わずに、見えざる神さまの人間に対して平安を与え癒そうとして下さる愛の配慮があると信じたのでした。しかしいつでも実り豊かな時ばかりとは限りません。4編の前半は苦難と罪深さに悩む人の祈りです。人間的には十分な実りが得られていない時、失敗し落ち込んでいる時、自己中心的な罪深さに気付かされる時、罪を赦し清め、新しい人生を与えて下さる神さまの愛を思い起こす人は、天国を目指して生きる喜びに満たされるのです