救いの起点も成立も完成も「恵み」にあります。恵みとは、神が先行して与える好意であり、対価や功績に応じた報酬ではありません。「信仰によって」という句は、恵みが人に実際に適用される「受け取り方」を示します。信仰は、空の手で差し出して受け取る姿勢です。続く「このことは」が何を指すかは議論があります。文法的には中性形で、直前の「恵みによる救いが信仰を通して与えられる」という全体の出来事を指すのが自然です。すなわち、救いの計画も成就も、その人が自ら生み出したものではなく、丸ごと神の贈り物である、という強い宣言です。9節で人間の誇りが否定されるのは、信仰自体を“手柄”化する傾向への歯止めでもあります。信仰は“功績化”するとたちまち自己義認の高慢さに転じます。だから、救いの根拠(恵み)は神にのみ属し、救いの手段(信仰)は人の働きではない、と二重に釘を刺します。続く10節では、救いが善行を不要にするのではなく、むしろ「善いわざへ」と人を新創造することを示します。順序は決定的です――善いわざは救いの原因ではなく、恵みによって新しくされた者の実りです。
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2025年10月19日
コヘレトの言葉は、必ずしも満足した報いがあるとは限らない人生の労苦を「空しい」と表現します。しかし、この空しさは何をしても無駄だから、努力をするのを止めようという投げやりな気持ちの表現ではなく、自分自身を幸せにしようと、自己中心的に生きようとすると、かえって幸せが遠ざかるものである、という逆説が示されているようです。人間は日頃の生活の必要を満たすために、様々に働き、努力をする必要があります。そうした努力自体はもちろん必要なことです。しかし24節では、働きの報いがたとえ小さく、ささやかであろうとも報いが少ないと不満に思わず、誰かと比較することなく喜ぶことが出来るのは、それ自体が神さまから与えられている恵みの一つであると教えているようです。コヘレトの語る空しさは、神さまを信じていても日々の生活の中で苦しみを感じ、時には言葉にして不満を語りたくなる人間の現実を示しています。しかしそうした不満を言葉にした時に不満で終わらずに、神さまが共におられ、日々必要なもので満たして下さると信じて感謝することが出来る人は、与えられている喜びに気付くことが出来るのだと、聖書は教えているのではないでしょうか。
2025年10月12日
健全な自尊心を持つことは大切なことです。しかし、自分を大切にするということを超えて、何でも自分中心になってしまったり、自分の都合で相手のある約束ごとを軽々しく変更したり破ったりすれば、信頼関係が損なわれてしまいます。軽々しくではなく、病気や体調、急な仕事など、やむを得ないと了解してもらえる事情があっても、約束ごとがたびたび破られるようではやはり信頼関係が損なわれてしまうかも知れません。個人の約束、政治の約束、組織の約束、どれも完全ではありません。約束が破られ、あるいは一部しか実行されないとき、人は失望を感じるでしょう。しかし、イエス・キリストは誠実さにおいて決して変わることがないので、救いの恵みについて約束を破ることがありません。時代と価値観の変化の中でも、イエス様は変わらない方として、人を愛し、罪人を憐れみ、救いへと導き続けておられます。この変わらざるキリストは、不完全な罪人が悔い改めて救われると信頼して下さっています。このイエス様を信頼する人は、人を過剰に信頼せず、イエス様の信頼において人を信頼する赦しの愛の心が与えられるのです。
2025年10月5日
「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」は、稲を10把で1束と数えることから生まれた言葉です。「いろいろな種類のものを無差別にひとくくりにする」という意味があります。しかしそこから転じて、無価値なものとして扱う、という意味で使われているようです。蔑む意味の無い本来の表現は、大きいのも小さいのも、みんな同じ稲として束ねるという意味ですから、人間の違いなど些細なことであり、みんな神さまの御手に包まれて仲良く、共に生きるのだ、という意味として使うことも出来るでしょうか。新約聖書の時代、雀はもっとも安価な食物の一つとして、十把一絡げに売られていました。一羽だけでは当時の小銭の単位である1アサリオン(数百円くらい?)で売ることすら出来なかったようです。しかし人間にとってはつまらない、価値の低いと見なされる存在でも、神さまは一人一人の魂を愛し、尊いものとしておられます。あらゆる人が神さまに愛され、尊ばれている十把一絡げとなって仲良く、共に生きていくことが出来ますように。