2020年4月19日

「指のない大工」の話。1924年、久米島にお生まれになった桃原(とうばる)さんは、20歳でハンセン病療養所の沖縄愛楽園に入所されました。「沖縄を突然襲った十・十空襲を日本軍の演習だと思って森に上がって見ていました。そして、空襲、艦砲が始まりました。愛楽園に米軍が上陸したのは、1945年4月21日でした。『出てこい、出てこい』と言われ、みんな、捕まっていました。それからは自由になりましたが、夜になると食料調達に出かけます。『戦果を上げに行く』と言いました。履き物もないから、ガラスで足を切って、化膿、麻酔なしで左足の人差し指を切られました。『戦果』のダイナマイトを海に投げ入れて、魚を捕りました。1948年、人に頼まれてダイナマイトの信管を調整していたとき、それが爆発して、両手の指を全て失いました。失明は免れました。結婚、娘が生まれて、断種手術を受けさせられました。包帯で工具を腕に巻いて家具作りを始めました。娘が中学生になりました。ある日、『この病気怖いか』と聞きました。娘は何も言いませんでした。『あんたがこの病気を怖いのを僕は知っている。お母さんは何も教えてくれなかったか。あんたはもう中学生なんだから、もしこの病気がうつるなら、とうにうつっている。この病気はうつるもんでもない。お父さんたちは運がなくてなっただけだ。』この日、始めて親子三人で一つのお皿から一緒にご飯を食べました。」

(沖縄ハンセン病証言集より)

「一緒にご飯を食べる」ことができることがどれほど尊いことでしょうか。「この病気」は簡単にうつるものではないと言わないと終わらないと思います。

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