「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(Ⅱペトロ1:21)聖書には、神様のみ言葉が書かれています。神様が語っておられるのです。ですから、神様は沈黙されてはいません。千年以上に渡り、たくさんの人々が聖霊を受けて、書き留めたものですが、聖霊によって書き記されたのです。まだまだ書き記せないほどの豊かで、世界も収めきれないとヨハネ福音書は最後に書いています。まず、「心得て」おかねばならないことをこのペトロの手紙は、私たちに教えています。
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2020年7月5日
| ☆ 今週の言葉 ☆
「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」(マタイ11:25-27)。イエス様は、神様を、「天地の主である父」とお呼びしています。イエス様は子なる神様ですから、そうお呼びすることができますが、私たちは本来、神様を父なる神様と呼べるようなものではありません。イエス様が、「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように…』」(マタイ6:9)とお教え下さったからです。私たちは、その教え、祈りの言葉をイエス様からいただきました。イエス様が私たちをお選びになり、お教え下さったのです。イエス様の深い憐れみ、慈しみによります。私たちは、幼子のような者です。神様なくしては生きられない存在です。それだからイエス様が神様を父とお呼びしているように、私たちもお呼びすることを赦して下さったのです。神様とイエス様との交わりがわたしたちにも与えられるためでした。 |
2020年6月28日
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)」神様は、私たちをお造りになって、私たちを見守り、導き、養い育てておられます。神様の恵み深いみ手が私たちをご支配しておられます。私たちは、自由にいろいろなことを決め、自分で進みたいところに進もうとして、生きています。しかし、最も深いところでは、神様が導いておられます。神様のお心が大きすぎるので、私たちには分からないのです。しかし、聖書に記されているイエス様に心を合わせるならば、それが分かるのです。一羽の雀さえも神様の赦しなければ地に落ちることのない神様の深いご配慮が分かるのです。どんなに悲しい出来事の中にも神様は憐れみ、お引き上げ下さいます。
2020年6月21日
| 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』」
(ヨハネ14:6-7) 私たちは、神様を見ることも知ることもできません。神様の中にありますから、神様を捉えることはできません。神様につくられたものですから、創り主を理解することはできません。しかし、神様が、私たちにご自身をお示しになってくださいます。私たちの方から神様の方へは行けませんが、神様がおいで下さり、語りかけて下さり、神様にお会いすることができます。 そして、イエス様こそが神様の代わりに私たちのもとに遣わされた方で、神様ご自身をお示しになられ、神様の言葉となられた方です。イエス様を知っているなら、神様を知ることになるとあります。イエス様が道となってくださり、イエス様を通ることによって、私たちは神様のもとに行くことができるのです。 太陽や月や星、その他、自然にあるものを神様として礼拝することを聖書は厳しく禁じています。それらは、神様が造られたものだからです。神様の栄光を現わすものです。そういうものから自分の限界と無力さに気づき、神様を知るということもあると思いますが、そこからは本当の救いには至らないと思います。 十字架にまでお架かりになられたイエス様の愛をしってこそ、私たちは救われるのです。無から有を創り出される神様は、イエス様を知ることによって本当にわかることと聖書は示しています。 |
2020年6月14日
| 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)。どうしたらイエス・キリストを知ることができるでしょうか。聖書を読めばよいことが分かります。しかし、聖書を正しく理解するためには、神様の特別なお導きが必要です。そのために聖書に正しく聞くために教会をお与え下さいました。教会は、イエス様そのものです。教会で礼拝し、祈り合い、まじわりを深める中でイエス様の愛が分かり、神様を愛するようになるのです。 |
2020年6月7日
イエス様は、フィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに質問されました。大方、弟子としてのレッスンが終わったということと、イエス様はエルサレムに向かって、神様の大きなみ業に与らねばならない、大事な時を迎えられたからです。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」(マタイ16:15-16)。マタイ福音書では、この時のペトロをイエス様は、幸いだと言われました。つまり、合格、ということでしょう。しかし、このようにペトロが信仰告白ができたのは、人間によるのではなく、「天の父なのだ」とイエス様は言われました。人間の側の理解力の問題ではありません。神様が恵みによって示して下さったことなのです。イエス・キリストとは、イエス様がキリスト様、救い主です、という意味です。私たちもただただ恵みによって、信仰に与ったのです。イエス様のような生き方を求めることも間違ってはいないと思いますが、イエス様に全てを委ねて、イエス様と一緒に生きていくことが大切なのです。
2020年5月31日
| 「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8:29-30)。聖霊のお働きは、私たちを救いに与らせ、救いの完成へと導いて下さることです。救いは、イエス様の十字架と復活によってすでに成し遂げられたことですが、私たちにもそのみ業に与らせ、イエス様に結ばれて、更にいよいよ新しくされ、イエス様のようになっていきます。もちろんまだイエス様のようになってはいませんが、イエス様に結ばれていますので、私たちの力や努力によらず、日々、新たにかえられて、イエス様の栄光に与らせていただくのです。私たちをお救いになり、御子の姿と似たものにしてくださる、この働きをしてくださるのが聖霊です。イエス様のようになるなど、罪人である私が、とんでもないことと思われますが、ペンテコステによって聖霊をいただいて、すっかり根本からかえられました。イエス様のお姿に近くなりました。それは、聖霊のお働きの中に入れていただいたからです。私たちの中に聖霊がお住いになられていることを信じ、感謝しましょう。 |
2020年5月24日
| 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。(ヨハネ14:16-17)」。
聖霊は、私たちをキリストに結ばせ、キリストを信じさせて下さる霊です。聖霊のお働きのお陰で、教会に来て、礼拝をし、聖書を学ぶとき、イエス様のこと、神様のことがよく分かってきます。そして、イエス様は、十字架のおかかりになる前に、弁護者・助け主・慰め主を送ると約束されました。それは、真理の霊です。パラクレートスという言葉です。そばにいて下さるという意味です。神様がいつも一緒にいて下さいますので、こんなに心強いことはありません。この世には、自分自身を専門家と言ってはばからない人が大勢いますが、人間の知恵は、無力です。主の前に、へりくだって、主を礼拝し、聖霊を受けさせていただきましょう。 |
2020年5月17日
「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい』」(使徒言行録1:3-4)。そして、イエス様は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8)と言われ、天に昇って行かれました。弟子たちは、祈り始めました。そして、ペンテコステ・聖霊降臨の日を迎えることとなります。聖霊のお働きによって、イエス様を知ることができ、イエス様を証することができます。聖霊は、神様とイエス様から出る霊です。神様とイエス様を正しく教えてくださるのです。聖霊の神様によって私たちの信仰は育てられていきます。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)。
2020年5月10日
| 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)。これは「ぶどう園の労働者」のたとえの最後でイエス様が言われた言葉です。朝早くから働いた人も、夕方来てほとんど何もしなかった人も同じ一日の労働賃金をいただきました。ただいた順番は、遅く来た順でしたから、早朝組は、たくさんもらえると思いました。この家の主人のやり方を見て、彼らは言いました。「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」家の主人は言いました。「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。聖書の世界は、私たちが考える世界とは違うようです。うらやんだりねたんだりしないで、最後に来た人たちに、「よかったね」と言ってあげられるかです。イエス様には、どれだけ働いて、コストパフォーマンスを上げたかなどということは、関係のないことでした。 |