「わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、…あなたがたを招かれたのです。」(Ⅱテサロニケ2:14)主イエス・キリストの栄光とは、十字架の栄光です。十字架は、苦しみです。それは復活につながります。私たちはそれに与るために召されました。喜んで十字架を負わせていただきましょう。
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2021年11月7日
コロナ休校の爪痕と題して、新聞が報じていました。今、学校に行けない子どもたちが増えているのだそうです。コロナになって学校は休校となりました。長くて3ヶ月続きました。学校が再開して、では、始まりと思っても、体が動かないのです。行けない理由が本人にも分からないというのです。無気力、不安によって不登校になった子どもたちが増えたとのことでした。無理して行かなくていい、逃げてもいいと言われても、その後のフォローがないのが現実です。
ある聖歌の歌詞に、「イエス様に頼りなば、憂いは消えうせ、喜びあふれん」とあります。この歌のメロディーは誰でも知っているもので、伝道集会などでよく歌われる歌と思います。頼る人が、頼る何かがない時代ほど悲惨なことはないと思いました。イエス様に委ね、生きて、召された方々に思いを寄せましょう。
2021年10月31日
今日、10月31日は、宗教改革記念日です。1517年、ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95箇条の提題を発表したところから始まりました。信仰のみ、聖書のみ、恵みのみという信仰の新しい立場が明確にされていきました。当時、教会は教会堂修復のために莫大な費用が必要でした。その資金集めのために罪が赦されるというお札を作りました。お金を持っている聖職者たちは、資金を出さずに、貧しい人々からお金を集めていました。それはおかしいと、質問状をルターは、発表したのでした。
2021年10月24日
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)喜び、祈り、感謝、これらは教会の皆に与えられた言葉です。礼拝を皆で捧げることを喜び、互いの祈り合い、お互いに感謝し合うことです。教会がそういう教会になれるのは、皆がイエス様に結ばれているからです。キリスト・イエスにおいてのIn Christは、特にだいじな言葉です。
2021年10月17日
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(Ⅰテサロニケ5:10)
主が十字架におかかりになったのは、主ご自身が自分を中心とすることを止めたと言うことです。主ご自分が絶対に自分を正しいとすることを止めたということです。神様の御子がそこまでして下さったのは、私たちも自分を絶対化しないで、イエス様と生きるようになるためでした。自分が正しいという考えを止める時、本当の自由が与えられるのです。主と共に生きる、主に全てをお委ねして生きることこそが私たちの幸いです。
2021年10月10日
「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」(Ⅰテサロニケ3:8)。自分は今まで何をしてきたのだろ、みんな誰もが終わりを迎えます。これは確実なことです。本当に生きたと言えるのかと思います。そういう中で、パウロは、自分を見ないで教会の愛する兄弟姉妹を見ています。あなた方がしっかりとイエス様の上に立っているので、私は生きていると言いました。主は、そう言える人々との出会いを与えられました。
2021年10月3日
「それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(Ⅰテサロニケ2:13)。
人は神の言葉を語り、聞くことができるでしょうか。自分の言葉になってはいないかと絶えず注意しなければなりません。都合よくで聞いてはいないか。自分の信仰と行いに矛盾はないか、いつも問われます。神の言葉を語ること、聞くことは、かなり厳しいことです。しかし、そういう中で神の言葉が働くのです。神の言葉は、十字架の言葉。だから慰めと希望の言葉となります。
2021年9月26日
「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」(Ⅱテサロニケ1:3)。苦難の中にあって、イエス様が真ん中におられる教会の歩みがこういう麗しい幸いな兄弟関係をつくり出しました。それはパウロが仕える者の範を示したからでもありました。
2021年9月19日
テサロニケの教会の人々は、ひどい苦しみ中で、イエス様を信じ、喜んでパウロに倣い、イエス様に倣うものとなりました。倣うとは従うと言うことです。イエス様の後に従って、イエス様の背中を見ながらついていくという意味です。それによって近隣の教会の人々の模範となりました。
2021年9月12日
囚人としてパウロはローマへ移送されました。ローマへの航海記も多難でしたが、ローマへ到着し、裁判を待ちます。その間の2年あまり、それが宣教の絶好の機会となりました。不思議なことに自由に何の妨げもなく、パウロは宣教の務めを果たし続けます。唐突な使徒言行録の終わりですが、神様のなさることは止めることが出来ず、福音は広がり続けていきます。