「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)。地の果てとは、どこでしょうか。それは、イエス様が今働いておられるところです。貧しくされた人々、助けをもめている人々、弱くされている人々のところでイエス様は働いておられます。弟子たちは、主のあかし人としてこの世に遣わされていきます。宣教の課題は、一言で言ったら、平和をつくり出すことです。イエス様が働いておられる現場に向って、私たちも平和をつくり出す使命を少しでも果たしていきたいと思います。
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2021年6月20日
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マルコ15:39)。イエス様は人々に罵られ、最後に「わが神、わが神」と絶叫して十字架上で息絶えました。この時、百人隊長が「この人は神の子だった」と言ったのです。イエス様とずっと一緒にいた弟子たちでさえ理解できなかったのに、この百人隊長はなぜこう言えたのでしょう。「正しい方が苦しむ」を目の当たりにして、その苦しみが自分のためであったと受け入れたからと思います。
2021年6月13日
「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した」(マルコ14:45)。ユダは、イエス様に絶大な期待をかけていたと思います。イスラエルを救ってくださるという期待です。全力でイエス様に仕えてきたのでしょう。しかし、ユダの心にサタンが入りました。ユダは、イエス様から自分は十字架に付けられるのだと聞いて、そんなことが絶対にあるはずがないと思ったでしょう。イエス様を愛し、イエス様に全てを捧げて生きてきたのに、イエス様を引き渡してしまいました。引き渡した瞬間、ユダは自分がイエス様をどれだけ愛していたかに気づいたことでしょう。
2021年6月6日
「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた』」(マルコ14:6-8)。ナルドの香油をイエス様に注いだ女性は、人々には大変な無駄をしたと映りました。しかし、イエス様は、良いことをしてくれたとおっしゃいました。イエス様は、自分の埋葬の準備と受け取られたのでした。イエス様の十字架の前日のことでした。しかも、イエス様は、自分に対してできる限りのことをしてくれたのだと言われました。できる限りのことをしたいと思う人がいるということは幸いなことです。この女性にとっては、それはイエス様でした。イエス様のためにできる限りのことをする、そういう生涯をおくれたら幸いと思います。しかし、良いことをして、できるかぎりのことをして生きたかどうかは、イエス様がそうおっしゃってくださるかどうかで、自分で考えることではなさそうです。私のために命を捨ててくださったイエス様のことを思いながら、日々、生きていきましょう。
2021年5月30日
「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2:8-11)。
聖霊降臨は、弟子たちだけでなくエルサレムにいた多くのユダヤの人々を世界宣教へと遣わしました。エルサレムには、エルサレムを中心にして東西南北、さまざまな国から人々が集まっており、めいめいがふるさとの言葉で福音に触れ、地元にもどり、教会を生み出していったのでした。福音の種は至る所で蒔かれました。
2021年5月23日
「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けていた」(マルコ12:37)。人々は、律法学者たちの権威的な振る舞いや外見的な姿に本当に大切なことが何か、見えなくされていました。人の言いなりにならない、自分で考え、自分で判断することが自立することです。考えることを止めてしまったり、偏った考えを持ったり、色眼鏡をつけたような見方にならないように、イエス様の教えに耳を傾けることが大切なのだと思わされます。「よく見る、よく聞く、よく考える」。「御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし」(エフェソ2:17-18)て下さいますように。
2021年5月16日
「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。…もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」(マルコ11:2-3)。主イエス様のお言葉です。私たちの行うことが、主が必要とされていることであったら幸いなことだと思います。私の必要ではなくて、主の必要のために今日一日を生きていきたいと思います。その必要を聞き分けられるように祈りたいと思います。
2021年5月9日
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)。金持ちの人は、イエス様に財産を売って、私に従うようにと言われました。しかし、悲しみながら立ち去りました。それは、自分ではできないことだったからです。しかし、イエス様は、神様は何でもできると言われました。もっと神様を信頼しましょう、という招きのイエス様のお言葉です。自分の「欠け」を知らされても、イエス様のこの言葉に励まされ、イエス様と共に歩んでいきましょう。
2021年5月2日
「さて十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28:16-17)。
「山に登った」とあります。旧約聖書出エジプト記のシナイ山での十戒をいただいた場面を思い起こさせるところです。ここで、まことの神様だけを礼拝し、み言葉に聞き従うように命じられました。聖日を守り、神様と交わる幕屋を作るようにと命じられたのでした。エジプトからの解放は、神様を礼拝するためでした。私たちもガリラヤで山に登るとは、教会でイエス様を礼拝するということです。罪、死、サタンから解放されて、イエス様を礼拝し、礼拝したものは、イエス様からの宣教命令の従っていくこととなります。
2021年4月25日
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3:12-14)。総会を迎えるにあたって、このみ言葉が与えられました。いろいろあってもやっぱり大阪神愛教会もイエスキリストの「教会」なのだと言える総会であってほしいと誰もが願っていること思います。「人の怒りは神の義を実現しないからです」(ヤコブの手紙1:20)。