「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25:32-33)「永遠の命」と「永遠の罰」とを表す右と左です。しかし、どうして自分が右側になったのか、どうして自分が左側になったのか、本人は分かりません。私たちも最後の最後まで分からないのですから、イエス様にお導きいただき、恵みを語り続けましょう。
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2019年12月1日
「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:48)私たちも主に呼び集められました。「忠実で賢い管理人はいったいだれであろうか」(42節)とあります。
2019年11月24日
「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。」(コヘレト3:18-19)今、ペット産業は1兆5千億規模だそうです。商品と見なされた動物たちは、多くは売れ残り、悲惨な状態に置かれています。また、動物園でも増えすぎたライオンは檻に入れられたままになっています。鳥インフルエンザが発生すればあまたの鳥が処分され、豚コレラが発生すればまた処分されます。かわいそうでなりません。そういうことをしている私たちははもっとかわいそうな存在なのだと思います。人間は動物にまさるどころではなく、深い罪を重ねています。神様に救っていただかねばなりません。
2019年11月17日
伝道とは、イエス様の素晴らしいみ業、救いの業、復活の希望を伝えていくことです。教会においでよと声をかけ、イエス様を知っていただくことです。それには、伝道する側に喜びや感謝の生活がなければ、証しにならないのです。そういうことはよく聞かされると思います。それは確かなことだと思いますが、そのために私たちのなすべきことは、人と出会うことです。人と出会い、自分がかえられていくことです。出会いの中でイエス様が生きて働かれていることを信じ、自分がかえられていく。そういう「私」をみて、人も神様を信じようとするのでしょう。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」この光が「わたし」を「あなた」を包んでいますから。
2019年11月10日
「人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの」(コヘレト2:24)。苦労することもが神様からの賜物です。体も心も満たされる幸いな食卓に与りましょう。
2019年11月3日
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ福音書12:3)、一リトラとは、326gです。300デナリオン(1デナリオンは1日の労働の賃金)という値段で売ればいいのにとユダは言いました。イエス様は、ご自身の葬りのためにマリアがしてくれたことと、受け取られました。香りが家中いっぱいになりました。神愛教会もこの香り、福音の香りでいっぱいになりますよう、み言葉を分かち合い、祈りを合わせていきましょう。
2019年10月27日
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」神様の栄光を現わすことが私たちの生きる目的です。何か大きななことをすることではありません。一生をかけて、やり続けることです。私たちには教会が与えられています。イエス様のお体である私たちに与えられた教会を愛することです。
2019年10月20日
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)。イエス様のお言葉です。私たちは、教会に招かれ、バプテスマを与えられ、ただただ恵みによって選ばれた者です。何の功しもないのに、です。招き、選んでくださったイエス様に感謝して、イエス様にお導きをいただき、最後までお委ねしていきましょう。
2019年10月13日
本日の修養会テーマは、「どうしてメシアはダビデの子なのか」です。わたしたちにとって救い主は、どなたですか、どういうお方ですか、というテーマです。「主は、わたしの主にお告げになった。」とダビデ自身が言っているとは、神様が、私の救い主・キリストに告げたということです。ダビデの子であるものが「私の主、私のメシア、救い主」というのはおかしくはないですか、とイエス様は言われました。ダビデにとって、私の主とお呼びする方が、私の子、子孫などというはずはないと言われています。私たちは、イエス様がキリスト様であると知っていますが、この問答がなされているときは、誰もが千年前のかつてのダビデ王朝が再興されることを悲願としていました。目の前のイエス様をキリストとは考えていませんでした。イエス様は、ダビデ王を超える方がいらっしゃるのだとお語りになったのです。しかし、聖書はダビデの子孫としてイエス様がお生まれになりましたと記しています。私たちの信仰でもあります。「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:3-4)どうしてメシアはダビデの子なのでしょうか。みんなで話し合いましょう。
2019年10月6日
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25)。イエス様のお言葉です。全き神様である方が、死んでも生きる、と言われました。そして死なないと言われました。病いを得、年を重ね、体は弱って死んでいくのは自然のことです。しかし、死んで終わりではありません。イエス様は、復活の命そのものであります。ナザレのイエス様を神様と信じる信仰の決断が求められています。イエス様によって神様の愛が完全に現されたことを信じて、復活の希望をいただいて生きましょう。