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2017年8月13日

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3:12) この言葉に続いて、互いに「赦し合いなさい」と言われています。なぜならイエス様が赦して下さったのだからです。イエス様と同じようにしましょうと勧められています。これがは、イエス様に選んでいただいた私たちの務めです。教会員の務めです。教会には、「裁き」とか「責め」は要らないのです。そういうものが教会に入り込まないように、教会が清められるようイエス様に祈り求めていきましょう。

2017年8月6日

「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2:14) パウロは、「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ書3:20)と言います。律法の実行とは、神様を愛することと隣人を愛することです。私たちは、イエス様を信じることによって救われました。イエス様の十字架の救いは100%です。そのイエス様の救いに与って、喜んで兄弟姉妹のために仕えていくことがヤコブ書では求められています。「行い」とは、兄弟姉妹に仕えること、兄弟姉妹を赦すこと、兄弟姉妹の必要のために捧げることです。兄弟姉妹とは、神愛教会の兄弟姉妹、目の前の人、または世界の人々と言うこともできます。ヤコブ書は、具体的な行動としての信仰が強調されていますが、なすべきことはたくさんありそうです。恵みに与ったことを感謝して、示されたことを喜んでしていきましょう。

2017年7月30日

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(ヤコブ2:1)教会に、金の指輪をはめた立派に見える人が来ます。貧しい身なりの人も来ます。ヤコブは、差別してはならないと言います。人を外見や身なりで判断して、貧しい人に対して、そこに立っていなさいとか、私の足元に座っておれ、と言う人がいたのです。神様は、あえて貧しい人を選んで、信仰を富ませたのだと言われています。人を分け隔てしない教会となるために、私たちも気を付けなければならないことがあります。イエス様が互いに愛し合いなさいと教えられましたから、人を見下すような思いに気づいたら、その場で、イエス様に赦しを求め、清めていただきましょう。

2017年7月23日

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

この言葉は、イエス様が十字架の上から、イエス様のお母様とイエス様に愛されていた弟子の一人に語られたものです。十字架の上から、イエス様はここに新しい家族をつくって下さいました。教会が、一つの神の家族と言われるのは、イエス様が十字架の血をもって、贖われ、救われたものを集めてくださったからです。私たちがお互いを兄弟姉妹と呼べるのも、イエス様が出合わせ、関係をつくりだして下さったからです。イエス様が愛してくださいましたように、私たちも互いに愛し合いましょう。

2017年7月16日

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコブ1:2-4)

試練・悪への誘惑は、神様から与えられるものではなく、自分自身の欲望に引かれ、そそのかされて、誘惑に陥るのです(13-14)と言われています。自分自身に原因があると言われています。厳しい言葉ですが、確かにサタンのせいばかりにしてはいられないところはあります。試練は、この上なく喜び、耐え忍ぶものと言われています。しかし、どんなに努力し、頑張っても、試練や誘惑に打ち勝つことはできないと思います。聖霊のお力によってのみ乗り越えることができるのです。ですから、ひたすら願い求めましょう(6)。

2017年7月9日

「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」(ヘブライ13:15-16)ヘブライ人への手紙では、神を愛すること、人を愛することを「いけにえ」という言葉を使って表しています。捧げること、犠牲として捨てることです。讃美歌332「我は主のために何をすてし」と歌います。

2017年7月2日

「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(ヘブライ12:29)。この言葉は、厳しい言葉に聞こえます。しかし、迫害と苦難のなかで忍耐している人々にとっては、慰めであり、励ましの言葉です。神様は正しいことを行ってくださいます。苦しみを与えている者には苦しみをもって報い、苦しみを受けているものには休息をもって報いてくださると、Ⅱテサロニケ1:7では言われています。イエス様は、「燃え盛る炎の中を来られる」(8)のです。主よ、すぐに来てくださいと祈る時があると思います。すべてを焼き尽くして、終わりにさせてしまうことのできるイエス様が来て、全てを元通りにしてくださいます。私たちは、そのイエス様に救われて、イエス様のみ教えに従って生きていくのです。

2017年6月25日

「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:11)

鍛錬と言う言葉は、でっち奉公、弟子見習いという意味の言葉です。私たちの生活の全てが、「修行」のようです。神様は、「ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」(10)とあります。石の上にも3年と言いますが、辛抱しましょうと、忍耐しましょうとヘブライの手紙は言います。そういう意味で、ヘブライの手紙は、教会の人たちを励ますために書かれたものです。「信仰」、「希望」、「愛」が大切ですが、プラス、「忍耐」です。

「義という平和に満ちた実」とは、イエス様がいつも一緒にいてくださると言うことだと思います。イエス様が一緒だから、どんなことも乗り越えられるという、イエス様への全き信頼です。

2017年6月18日

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ11:13)

信仰とは、つまり神様を信じるとは、自分がこうしてほしいという望みではなく、神様がこうなさるというものをつかんで、たとえ目に見えなくてもその証拠を見ることです。そして、神様を信じるというのは、奇跡を信じるようなことでもありません。私たちを愛し、価値あるものとしてくださる神様を信じ、たとえこの地上では何もできなかった、名を残すようなこともできなかったとしても、私たちを召してくださったイエス様にすべてを委ねて最後まで生きていくことです。罪の増すところには恵みも増すのです。ですから、いよいよ復活を信じてまいりましょう。

2017年6月11日

「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(ヘブライ10:25)

初代キリスト者は迫害の中にありました。数々の圧迫に耐えてきましたが、世の終わりがなかなか来ないことで、教会にとどまることにゆるみが出てきたのでした。そういう中で、励まし合いましょうと呼びかけています。「分かち合い」は、励まし合うことに他なりません。時代は違っても、神以外のものに仕える誘惑にいつも私たちは晒(さら)されているのです。