ユダヤ人にとって理想の指導者とされたダビデ王は、モアブ人の子孫でもあります。これは純血主義のユダヤ人にとっては好ましくない事実だったかも知れません。聖書ではしばしば純血主義を保ち、異邦人と共に生活しないようにという勧めが見受けられますが、この勧めの本質は、ユダヤ人以外は遺伝的に汚れているということではなく、異邦人が信じている宗教を、聖書の信仰に持ち込んだり、妥協したりするなということだったのでしょう。ところが、時代が降るごとに信仰の純粋さを求める情熱は、高慢な選民思想的純血主義に覆い隠されて行きました。しかし、聖書では信仰の純粋さと、人間の多様性の両方が神様の目に好ましいものであることを繰り返し教えているようです。ダビデ王は他民族の血筋による英雄であり、かつ悔い改めを含めた信仰の模範でありました。ルツ記は、ダビデの先祖にあたるモアブ人ルツとユダヤ人のナオミ、ボアズとが、信仰を通して一つの民、一つの家族となった喜びの物語です。ダビデの王国であるイスラエルもまた他民族国家でした。イエス・キリストは万人を救われるという点でダビデの再来です。
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2023年1月8日
寒い冬は、温泉旅行が楽しいものです。「エマオ」という名前は旧約聖書のヘブライ語で「暖かい泉」という意味なのだそうです。マタイ8:28でイエス様ご一行が向かわれた「ガダラ」も古くからの温泉地として知られていますが、「エマオ」もまた温泉地だったのでしょう。温泉は保養地であり、人を癒す力があると昔から考えられていました。イエス様の死を経験した2人の弟子は、故郷に向かって帰っていたのかも知れませんが、あえて「エマオ」という地名をルカが記したのは、温泉で傷ついた心を癒やそうとした弟子たちの姿を描こうとしているようです。しかし、弟子たちの心を癒やしたのは温泉ではなく、イエス様の言葉でした。弟子たちは自分たちを癒やした言葉に、語りかけて下さった存在の中に、自分たちと共に生きておられる復活のイエス様の姿を見いだし、大いに癒やされ、励まされたのでした。しかし、この復活のイエス様は元気になった弟子たちのところに留まろうとはせず、道の先に行こうとされました。まだイエス様を待つ人々のところへ、イエス様は先だって進んで行って下さるのです。強いてイエス様を引き留めた弟子たちが、イエス様が生きておられることを信じた後、他の傷ついている弟子たちの所に知らせに戻ります。慰められた人は慰める力を得ます。先だって進まれるイエス様に続いて、私たちもまたイエス様の言葉によって慰め、励ます働きへと進んでいくのです。
2023年1月1日
聖書の神様はこの世界の全てを造られた創造主です。この神様が一番始めに創造されたものは「光」でした。人類の生きる地球型惑星が発生するためには、ほどよく光があたる「ハビタブルゾーン(生存居住圏)」に位置する必要があります。光は強すぎても弱すぎてもいけなくて、ほどよく、穏やかに惑星を暖める光でなければなりません。神様がこの世界に創造された「光」というのは、穏やかに照らし、命を生み出し育む光です。ヨハネ福音書1章では、この穏やかな「光」が、人の心を照らす存在であるイエス・キリストになぞらえられています。マタイ福音書11章3節、ルカ福音書7章19-20節では、イエス様のなさる事があまりにも穏やかだったので、バプテスマのヨハネが意外に思った様子が描かれています。イエス様による神様の恵みの言葉と働きは、穏やかに人の心を暖める光のようです。今年もまだ寒いとは言え、新年の春の光を迎えました。長い夜の闇は段々と短くなっていきます。今年も穏やかな春の光、イエス様の光に暖められてまいりましょう。
2022年12月25日
ヨセフは神様から、生まれてくる子供は「インマヌエル」と呼ばれるようになる、という言葉を受けました。これは旧約聖書の言葉であるヘブライ語で、「神様は私達と共におられる」という意味であることは23節に記されている通りです。「インマヌエル」という言葉が聖書に初めて登場するのは、イザヤの時代です。イザヤの生きた時代は、ダビデ王朝時代の末期、貧富の差は拡大し、政府は腐敗し、争いが絶えませんでした。イザヤは「インマヌエル/神が私達と共におられる」と呼ばれる人物が現れた時、人の力によってはついに叶うことがなかった、神様の平和が実現する国が現れる、という神様の恵みの約束を語りました。その神様のお約束が、あなたの子供として来られる方を通して今実現しようとしている、という神様からのお言葉をヨセフは信じました。クリスマスはこの世界に平和を実現されるイエス様のお誕生をお祝いする日です。この世界で起きるあらゆる苦難や争いに悩む全ての人に、インマヌエルのイエス様が平和を与えて下さいますように。
2022年12月18日
新約聖書の福音書でイエスさまの誕生の次第について記しているのはマタイとルカだけです。ヨハネ福音書は誕生の次第は記しませんでしたが、誕生の動機は「神の愛」であると記しています。ヨハネ福音書3章16節で「世」と訳されたギリシア語「コスモス」は「宇宙」という意味があります。神様の愛は巨大です。しかしこの愛は「一人も滅びること」なく、「永遠の命」を得ることを望む、一人一人を愛する具体的な愛でもあります。イエス様は、山上の説教や四千人、五千人の給食の出来事のように、沢山の人々に向かって語りかけ、神様の恵みを示すこともあれば、十二弟子やマリア、マルタ、ラザロの兄弟たちと個人的な関係を持たれました。何よりも先ず、マリアとヨセフの夫婦の子どもとして生まれ育つという、家族の一員として人と関わる人生を歩まれました。宇宙全体を救いへ導く巨大な神様の愛は、家庭の中にも現れて、個人を救いへ導くものでもあります。聖書は、神様の巨大な救いのお働きが、ベツレヘムという小さな村の馬小屋から現れたと記します。小さな日常の中に、神様の大きな愛は注がれ続けて行くのです。
2022年12月11日
暗い湖の上で嵐にであった人々に、イエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とおっしゃいました。「いや、イエス様。それは怖いですよ。あとイエス様を信じるかどうかは嵐が怖いかどうかと別の話ですよ。」と弟子たちが言ったかどうかは解りません。イエス様を信頼していても、バンジージャンプや、ジェットコースターは怖いものです。マタイ8章にも同じ話がありますが、こちらは弟子たちに声をかけてから嵐をしずめています。ですから弟子たちの怖れは嵐であった、とマタイは言っているようです。それに対してマルコの場合は、嵐をしずめてから声をかけています。弟子たちの怖れは嵐よりもイエス様に向けられていた、と言っているのかも知れません。するとイエス様が問うておられる信仰とは、イエス様が神の子かどうかを信じるかではなく、従う人々を見捨てることをしない方であるという信頼について言っておられるのかも知れません。「何で怖がるのよ。あなたを見捨てたり、ひどいことをするわけないでしょう。信じてよ。」とイエス様は言っておられるのかも知れません。
2022年12月4日
イエス様を出産した時、マリアは十代だったとも言われています。加えて、マリアはヨセフと婚約していましたので、周りの人々からは不貞を疑われたでしょう。初めての出産で不安な中、周りの人々はマリアの心をかき乱したかも知れません。そんな時に、マリアは、親戚のエリサベトのところへと導かれます。エリサベトにはマリアとは異なって、高齢出産という危機がありました。しかし、エリサベトもマリアと同じく、神さまに与えられた命と信じて出産を決意しています。マリアは自分の苦しみを理解してくれる戦友を見いだしたような喜びを得たかも知れません。ルカ福音書1章46-55節は「マリアの賛歌」と呼ばれています。同じ神さまの御心を信じ、悩みに耐えて喜びを抱く人を見いだした時、マリアの口から神さまを讃える言葉があふれ出したのです。
2022年11月27日
本日はクリスマスの一ヶ月前の日曜日、アドベントの第一週となりました。第一のアドベントキャンドルは、「希望」を思い起こす光として灯されます。マタイによる福音書2章では、キリストに出会うために遠くの国からやってきた東方の博士たちが登場します。彼らは「マギ」と呼ばれる、天文学者だったのだろう、と考えられています。実際、イエス様のお誕生前後あたりに、彗星が見えたり、天文学的に大きな出来事があったとも言われています。同じ星を見た人はこの天文学者たち以外にもいたはずです。しかし、彼らはイスラエルに偉大な存在が生まれる知らせと信じました。同じものを見ても神様を信じる人は、信仰の目で見ます。学者たちを導いた星は、日が落ちて暗くなる中で一層輝き、ベツレヘムのイエス様へと導きます。救いは苦難という闇のなかで一層輝く希望の光です。
2022年11月20日
新約聖書の中に描かれたイエス様は、食事を共にする姿が印象的です。きっと弟子たちは、食事の席での話されたイエス様のお話を印象深く覚えていたのでしょう。 イエス様は、誰かの家に招かれて食事をする機会が多くあったようです。家に招いて食事を共にすることは、最高の親愛を示すもてなしでした。イエス様の素晴らしいところは、どんな人の招きにも応じておられたことです。律法学者のような社会的に立派とされていた人の食卓にも招かれましたし、徴税人という社会的な蔑まれていた人の食卓にも招かれました。どんな人の招きにも応えておられたイエス様は、「大酒飲みで大食漢だ」と意地汚い食いしん坊だと悪口を言われたり、ただで飲み食い出来る機会を求めて「罪人とも親しくしている」と悪口を言われたりしました。しかし、イエス様はどんな人でも愛を示され、神様の恵みを伝えました。一緒に食事をするということを通してイエス様の隣人愛は示され、孤独が慰められる時が与えられるのです。
2022年11月13日
聖書では肉食や飲酒を禁じているわけではありません。むしろ、神様の恵みであり、祝い事、祭りの際には欠かすことの出来ない喜びの象徴でした。しかし、この2つは贅沢の象徴でもあります。時々いただくならともかく、贅沢を日常にしたくない、とダニエルたちは願ったのでしょう。肉と酒ばかり毎日たらふく食べていれば内臓に負担がかかるし、贅肉もつきやすくなるでしょう。野菜ばかり食べるというのは、また極端な食生活ではあります。しかし、肉と酒ばかり食べていた人より、野菜ばかり食べていたダニエルたちの方が健康だったので、顔色が良かったのでした。しかし、顔色が良かったのは、野菜をとってビタミンを補充したからだけでなく、神様の言葉という魂のビタミンが補充されたからです。日常の付き合いや、食欲をまったくなくすことは出来ませんが、神様の言葉によって満たされ、必要に応じて欲望を節制することを知る人は、魂の健康を得るのです。