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2023年3月12日

家畜化された羊は、自分の毛が伸びすぎると人の手で刈ってもらわないと、身体に汚れがたまり、健康を損ないます。羊は、同じ場所の草を食べ続けるという習性がみられるので、羊飼いは草がなくなる前に、群れを連れて移動し続けます。狼に襲われると、反撃することができずに散り散りに逃げ出します。羊飼いは、杖や鞭を使い、狼を追い払います。ですから、羊飼いがいない羊の群れは、とても困ってしまうでしょう。人間は羊とは違い、自分で身体の手入れを行い、自分で食事の準備をし、自分で危険に備えることが出来ます。しかし、心や人生という、目に見えない事柄では、何が自分に必要なのかも解らず、思いがけず傷つき、癒し方を知らずに病むことがあります。集まった人々をご覧になるイエス様は、人々の姿を羊飼いのいない羊の群れのように感じ、深く憐れんで下さいます。そして、神さまの言葉によって慰め、励まし、奇跡を伴う働きによって、人々の人生に健やかさを与え、痛みを癒し続けて下さいます。イエス様は人々の羊飼いなのです。

2023年3月5日

新約聖書においてファリサイ派は、「偽善者」と呼ばれることもあり、悪人の代表のような印象を持たれることもあるかも知れません。しかし、多くのファリサイ派は真面目で立派な人々でした。彼らは庶民階級の代表であり、腐敗した宗教者に対抗して、聖なる生活を志す信徒たちの代表的存在でした。だから当時、多くの人々がファリサイ派に加わったのです。しかし、自分たちが聖なる生活を志しているという自負が、そうではない人々を蔑むという高慢さを引き起こすこともありました。これは、キリスト者にも起こりうる問題です。神様を信じる人は、神様と1対1の人格的関係に生きる人です。誰かと比較して信仰や正しい生活の優劣を気にしたりしません。神様からいただく赦しの愛をいただき、隣人を自分のように愛する新しい命に生きる人へと変えられ続けるのです。

2023年2月26日

新約聖書時代のガリラヤ地方は、純血のユダヤ人以外の人々が多く住んでいたので、「異邦人のガリラヤ(15節)」と呼ばれる事もありました。「異邦人」という表現には2つの意味があります。1つ目の意味は、単に外国人、という意味です。2つ目の意味は、聖書の神さまを信じていない人、という意味です。どちらも、それ自体は悪い意味ではありませんが、極端な純血主義のユダヤ人からは蔑みの言葉としても使われていたかも知れません。同じガリラヤ地方のカナという町の出身とされるナタナエル(ヨハネ21:2)は、イエス様がガリラヤ地方のナザレ出身と聞いて侮っていたようです(ヨハネ1:46)。同じガリラヤ地方の出身者ですらそうだったのです。しかし、そんなガリラヤ地方出身者として、イエス様は神さまの救いのお働きを始められました。イエス様と弟子たちは、後に、エルサレムを始め、色々な場所に行かれますが、拠点として、戻ってくる場所はガリラヤ地方だったようです。人々が期待してないところに突如として現れた神さまの働き人、救い主イエス様の存在は、闇夜の道を照らす灯火のように、人々の心を照らし、思いがけない神さまの恵みを喜んだことでしょう。神さまの救いの働きは、思いがけない時、思いがけないところに差し込む暖かな光です。

2023年2月19日

新約聖書時代のガリラヤ地方は、純血のユダヤ人以外の人々が多く住んでいたので、「異邦人のガリラヤ(15節)」と呼ばれる事もありました。「異邦人」という表現には2つの意味があります。1つ目の意味は、単に外国人、という意味です。2つ目の意味は、聖書の神さまを信じていない人、という意味です。どちらも、それ自体は悪い意味ではありませんが、極端な純血主義のユダヤ人からは蔑みの言葉としても使われていたかも知れません。同じガリラヤ地方のカナという町の出身とされるナタナエル(ヨハネ21:2)は、イエス様がガリラヤ地方のナザレ出身と聞いて侮っていたようです(ヨハネ1:46)。同じガリラヤ地方の出身者ですらそうだったのです。しかし、そんなガリラヤ地方出身者として、イエス様は神さまの救いのお働きを始められました。イエス様と弟子たちは、後に、エルサレムを始め、色々な場所に行かれますが、拠点として、戻ってくる場所はガリラヤ地方だったようです。人々が期待してないところに突如として現れた神さまの働き人、救い主イエス様の存在は、闇夜の道を照らす灯火のように、人々の心を照らし、思いがけない神さまの恵みを喜んだことでしょう。神さまの救いの働きは、思いがけない時、思いがけないところに差し込む暖かな光です。

2023年2月12日

心理学者マーティン・セリグマン博士によって提唱されている「ポジティブ心理学」は、心の健康を回復させ、保つ研究をしています。「ポジティブ心理学」において「感謝される」ことではなく、「感謝する」ことは、自分がすでに相手から何らかの利益を得ていることに気付くことであり、感謝する人自身の幸福感を高めることが知られています。しかし、「感謝する」ことは無理矢理に見つけるものではありません。テサロニケの信徒への手紙第一5章18節では、「どんなことにも感謝する」という言葉があります。「どんなことにも」と訳されたギリシア語「パス」は、「全体的なことと、個別の事柄に注目すること」と定義されています。すると、「どんなことにも感謝する」というのは、一つ一つの事柄の中に感謝することもあれば、いまいち感謝できないことや災いを被ることもある人生そのものを全体的に感謝することも出来る、ということではないでしょうか。禍福はあざなえる縄のごとし。キリスト者は、人生は色々あるけれども、やっぱり生きていて良かったと思い、命が神さまから与えられていることを、全体として感謝することが出来るのではないでしょうか。「どんなことにも感謝する」ことが出来る幸いを、神さまは備えていて下さるのです。教会にも色々なことがあります。時には腹立たしいことや悲しいこともあるでしょう。でも全てを振り返れば、やっぱり「どんなことにも感謝する」ことが出来るのではないでしょうか。教会創立記念日、おめでとうございます。

2023年2月5日

古代社会では、義務教育制度はなかったので、文字を読み書き出来る人は、ごくわずかでした。印刷技術もなかったので、人が手で書き写していました。聖書の世界では長期保存する文章の場合は羊皮紙で巻物に書かれ、メモや簡易的な書類の場合はパピルスが使われました。紙やインクの類いは、現在に比べて高価だったので、本(巻物)を所有しているのは学者か宗教者のような人々に限られていました。従って聖書の時代の人々にとって、聖書は自分で読むものではなく、祭司や牧師が読み聞かせてくれるものだったのです。ネヘミヤの時代、祖国を失ったユダヤ人たちは、国際情勢の変化によってパレスチナ地方に国を再建することが出来るようになりました。かつての繁栄した都市の姿は失われており、廃墟となった土地を再び都市へと発展させた人々の労苦は、大変なものだったでしょう。苦難の中にある彼らのよりどころは、神さまのが自分たちを守り導き、再び自分たちの国を立て直させて下さるという祝福の言葉でした。しかし、残念なことに長い苦難の生活の中で、彼らは自分たちの母国語であるヘブライ語を失ってしまったのです。そこで、祭司や学者たちは神さまの言葉である聖書を、人々が解る言葉(おそらくアラム語)に翻訳し、そしてその内容についての説明を語り伝えました。これが現在のキリスト教会における「礼拝説教」の原点とも言われています。解る言葉と解る内容で神さまの言葉が伝えられる時、人の心に神さまの恵みが伝わるのです。

2023年1月29日

マタイ福音書20章1-16節でイエス様は、「天の国」をぶどう園になぞらえておられます。この「天の国」は神様を信じる人が死後に召される場所という意味と、神様を信じる人が待ち望んでいる理想的世界という二重の意味があるようです。たとえ話のぶどう園は、日々労働者を必要としています。ぶどう園の主人は夜明け前から町の広場に行き、雇われ待ちの労働者を雇います。ところが、ぶどう園の大きさに対して、労働者が足りなかったようです。その後も夕方になるまで繰り返し広場を訪れ、労働者を雇います。最終的に広場にいた、雇われ待ちの労働者を全員雇ったようです。日も暮れて、1日の仕事が終わり、給料を払う時、後に来た順に約束通りの給料を払います。その額は全員が約束通り、1日の報酬として相応しい額でした。労働の報酬は目に見える賃金だけではなく、良き職場に招かれるという喜びがあります。全員がこの喜びを受け取ったのですが、より多く感謝したのは、より多く待ち望んだ人でした。自分が選ばれたことを当然と思うと、感謝は小さくなります。「天の国」とはそういう場所であるとイエス様は言っておられます。

2023年1月22日

バビロニア帝国はメソポタミア地方を中心に広大な領土を持っていました。ダニエル書に登場するネブカドネザル2世は、自分たちの支配者であったアッシリア帝国に勝利して独立国家を樹立、荒廃していた首都バビロンを再建し、イスラエル王国などの小国、地域を併合した英雄的人物です。しかし、ダニエル書ではネブカドネザル2世が、精神的不安定さを抱えていた様子を記しています。自分の見た夢について内容を教えぬままに解釈せよ、解釈出来ない賢者は皆殺しにするという命令もその一つです。ダニエルは神様から知恵を授かり、ネブカドネザルの夢を解き明かします。しかし、ネブカドネザル王の心を動かしたのは、夢を解き明かされたからではなかったかも知れません。というのも、解き明かしが正しいかどうかは、実際に預言が起きてみないと解らないからです。ネブカドネザルが46節以下で大いに心動かされた様子なのは、彼が抱いていた言い知れぬ不安を言葉にして表現してもらったからではないでしょうか。栄枯盛衰、しかし滅びるものも一つの像、一つの世界の一部、来るべき栄光の世界の前触れとなるというダニエルの預言は、不安を抱えながらも日々国を豊かにしたいと願い働く孤独な支配者の心に希望を与えたのかも知れません。ネブカドネザル王は、ダニエルの言葉を通して、自分自身を見守っておられる、真の神様の愛のまなざしを感じたのではないでしょうか。

2023年1月15日

ユダヤ人にとって理想の指導者とされたダビデ王は、モアブ人の子孫でもあります。これは純血主義のユダヤ人にとっては好ましくない事実だったかも知れません。聖書ではしばしば純血主義を保ち、異邦人と共に生活しないようにという勧めが見受けられますが、この勧めの本質は、ユダヤ人以外は遺伝的に汚れているということではなく、異邦人が信じている宗教を、聖書の信仰に持ち込んだり、妥協したりするなということだったのでしょう。ところが、時代が降るごとに信仰の純粋さを求める情熱は、高慢な選民思想的純血主義に覆い隠されて行きました。しかし、聖書では信仰の純粋さと、人間の多様性の両方が神様の目に好ましいものであることを繰り返し教えているようです。ダビデ王は他民族の血筋による英雄であり、かつ悔い改めを含めた信仰の模範でありました。ルツ記は、ダビデの先祖にあたるモアブ人ルツとユダヤ人のナオミ、ボアズとが、信仰を通して一つの民、一つの家族となった喜びの物語です。ダビデの王国であるイスラエルもまた他民族国家でした。イエス・キリストは万人を救われるという点でダビデの再来です。

2023年1月8日

寒い冬は、温泉旅行が楽しいものです。「エマオ」という名前は旧約聖書のヘブライ語で「暖かい泉」という意味なのだそうです。マタイ8:28でイエス様ご一行が向かわれた「ガダラ」も古くからの温泉地として知られていますが、「エマオ」もまた温泉地だったのでしょう。温泉は保養地であり、人を癒す力があると昔から考えられていました。イエス様の死を経験した2人の弟子は、故郷に向かって帰っていたのかも知れませんが、あえて「エマオ」という地名をルカが記したのは、温泉で傷ついた心を癒やそうとした弟子たちの姿を描こうとしているようです。しかし、弟子たちの心を癒やしたのは温泉ではなく、イエス様の言葉でした。弟子たちは自分たちを癒やした言葉に、語りかけて下さった存在の中に、自分たちと共に生きておられる復活のイエス様の姿を見いだし、大いに癒やされ、励まされたのでした。しかし、この復活のイエス様は元気になった弟子たちのところに留まろうとはせず、道の先に行こうとされました。まだイエス様を待つ人々のところへ、イエス様は先だって進んで行って下さるのです。強いてイエス様を引き留めた弟子たちが、イエス様が生きておられることを信じた後、他の傷ついている弟子たちの所に知らせに戻ります。慰められた人は慰める力を得ます。先だって進まれるイエス様に続いて、私たちもまたイエス様の言葉によって慰め、励ます働きへと進んでいくのです。