冬の寒い空を飛ぶ鳥は、人間のように服を着てはいませんが、暖かな羽毛に包まれています。鳥に羽毛が備わっているように、神さまは人にも生きる術を備えていて下さる、とイエス様は言っておられるようです。マタイ福音書では「鳥」となっていますが、同じ内容を記しているルカ福音書12章24節では「カラス」となっています。聖書では「カラス」は宗教上、汚れた生き物と分類されていました。しかし、イエス様は、たとえ人間が汚れた存在と見なすものであっても、神さまは生きる術を備えていて下さる、と言っておられるようです。「倉に納めもしない」という表現は、税金を納めることのなぞらえかも知れません。国や社会は相互扶助を基本とし、税金によって社会福祉制度を実行します。しかし神さまは、社会制度の前に、人の心に愛の精神を備えていて下さいます。自らのみならず隣人をも暖める、愛の羽毛に多くの人々が包まれますように。
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2024年1月7日
2024年は、飛行機事故、北陸地方の大地震という2つの災害によって始まりました。命を得た人々も、心に負った傷は深く、癒やされるまで時が必要となるでしょう。神様のお恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。聖書の世界であるパレスチナ地方も、日本とは異なる災害が多い地域です。現在に至るまで、さまざまな勢力が力によってこの豊かな土地を得ようとして、平和を捨て、争いを起こしてきました。エレミヤ書の時代、北から強大なバビロニア帝国がやってきて、国を滅ぼしてしまいます。しかしエレミヤ記では、国が滅ぶ根本的な原因は災害そのものではなく、社会に不正がはびこり、弱い人、貧しい人が不当に虐げられていることであると指摘します。人々が神様から隣人愛の心をいただき、互いに助け合う社会に変えられていく時、喜びに満たされる新しい命の力が、人々の心に豊かに注がれます。
2023年12月31日
仏教用語の「往生する」は、死んだ後に極楽浄土に生まれ変わることを意味する言葉です。しかし、同時に「困ってしまった」とか「諦める」という意味でも使われます。死とは先がなくなることだ、という意味で解釈され、日常の中で使われるようになったのでしょうか。「往生する」には、死んだ先にも命がある、という意味と、死んだらその先などない、という真逆の意味で使われるようです。4節のギリシア語原文は「この病は死ぬものではない」という表現です。この表現は重症でも死ぬほどのものではないから安心せよ、という意味としても、死んでも死なない、死を超えた命がある、という意味としても解釈できます。しかしイエス様は、人々が復活を信じようが信じまいが、ご自身を通して神さまに希望を抱く人に、天来の新しい命を与えて下さる方です。
2023年12月24日
本日は、アドヴェント第四週、テーマは愛となっています。今年は24日のクリスマスイブが日曜日なのですがイブは夕方のことなので、日曜日の午前中はギリギリ、アドヴェントなのです。マタイ、ルカの福音書ではイエス様のお誕生についての出来事を記していますが、ヨハネの福音書では出来事ではなく、端的にイエス様がこの世界に現れてくださったのは、人々の救いのためであったと記しています。イエス様の別名であるキリストという呼び名は「救い主」という意味です。もともとは旧約聖書の言葉ヘブライ語で「メシア」と言いました。「メシア」は苦しむ人々を助ける働きをする人の呼び名であって、イエス様の前の時代にも「メシア」たちは現れていました。そうした「メシア」たちのおもな働きは、悪い人を倒し、罪深い人に厳しく悔い改めを迫るものでした。しかしイエス様は厳しく罪を裁くためではなく、悪い人を含めた全ての人々を救うために来て下さいました。クリスマスはこの特別な救い主、イエス様をおくって下さった神さまの果てなき愛を喜ぶ日です。
2023年12月17日
キリスト教会の伝説によれば、イエス様の母となったマリアは、当時10代半ばだったと言われています。古代社会では女性の成人年齢は早く、10代の結婚、出産は必ずしも珍しくはありません。しかし身体が十分に出来上がる前の妊娠、出産は死亡リスクが高く、命がけになります。また結婚の前に妊娠することは、性的不道徳の罪として迫害されました。34節のマリアの言葉は、彼女の不安と戸惑いを現しているのかも知れません。しかしマリアは、おそらく苦難を予感しつつも、その苦難が神さまの恵みであり、聖霊によって産まれた子どもは神の子と呼ばれる、と告げる天使の言葉を信じたのでしょう。聖書は、マリアが抱いたであろう不安や恐れの言葉や、人々から迫害される中での悩みの言葉を記していません。希望の言葉のみ語るマリアの姿には、恨みや嘆きを言葉にしない心の強さと、怒りや悲しみを現すことで家族や周りの人々を傷つけまいとする優しさが示されているのかも知れません。
2023年12月10日
アドヴェントのろうそくの2本目は、平和を象徴する灯火となっております。ウクライナ、イスラエルを始め、あちこちで戦争、内戦、紛争は尽きない年となりました。イザヤ書9章5節やルカ福音書2章14節によれば、全ての人の罪を清める救い主、イエス・キリストは平和をもたらす方です。全人類がキリスト者ではないとはいえ、クリスマスだから、という理由で一時的であれ争いが治まるのであれば、ささやかではあっても、平和の一歩の小指の先くらいには喜ばしいことではないでしょうか。聖書に記されたイエス様のお誕生の出来事では、イエス様は赤ちゃんなので神さまのお言葉を話したりはしません。しかし、その存在が周りの人々を慰められ、励まされ、平安が与えられました。言うべきことは言わねばならず、言わなければ伝わらないこともありますが、争いになることを言わず、沈黙のうちに平和が現れることもあるでしょう。全ての人にとってクリスマスが平和の日となりますように。
2023年12月3日
イエス様のお誕生を祝うためにやってきた人々は、東の国からやってきました。おそらくペルシアの人だったのでしょう。当時、天文学者たちは現在のような科学者というだけではなく、星の輝きに神秘的な力があると信じる占星学者も兼ねていました。彼らは星の動きや輝きを見て、農業の時期を計ったり、人間の運命や未来を予感して人々に伝える働きをしていました。聖書の信仰は、占星術のような呪いを避ける宗教ですが、不思議なことに異なる宗教を信じる人々に対して、イエス様のお誕生が示されたのです。人は古代から、自然現象の中に目に見えない超越的存在を感じ取り、人を助け導く力を見いだしていました。イエス様は聖書の信仰を持つ人だけではなく、他の宗教の人々のためにも救いをもたらすために来て下さった方なのだと、聖書は教えているのかも知れません。
2023年11月26日
「収穫感謝祭」は、米国、カナダで行われてきたお祭りの一つです。かつてイギリスから北米に移民してきた人々が、その土地でとれた初めての収穫を神さまに感謝した礼拝が起源であるとされています。米国では、11月の第四木曜日、カナダでは、10月の第二月曜日に行われているそうです。日本では11月23日は「勤労感謝の日」として祝日と定められています。日本の勤労感謝の日は、秋の収穫の祭りであった「新嘗祭(にいなめさい)」が由来とされています。しかし、神道色が強い表現ですから宗教的な表現を避けて「勤労感謝」と呼ぶことにしたのだそうです。「収穫感謝祭」と「新嘗祭」は宗教は違えども、大地の実りを自分の努力の報酬として受け取るだけではなく、目に見えない神さまによって助けられたことを感謝する、祭りの日だったのでしょう。使徒言行録14章17節では、宗教は違えども、聖書の神さまは万人の神さまであり、だから神さまはどんな人、どんな地域であっても、大地に実りを与え、人々に収穫の喜びを与える方なのだ、と教えているようです。日本の勤労感謝の日は、働く人への感謝と働く人自身が何者かに感謝する日です。人々の信仰はそれぞれ違えども、キリスト教会は全ての人々の代表として、聖書の神さまに感謝を献げて、次の収穫のために人と世界が守られるよう祈り、神さまに礼拝を献げます。
2023年11月19日
新約聖書の時代の人々は、商売上の契約など、何か重要な約束事をするときには、自分の信じる神様にかけて約束事を果たすことを誓う、という習慣があったようです。自分の信じる神様にかけて誓うのですから、もし約束を破ってしまったら、その人自身の信頼を失うだけではなく、いわば約束の立会人とされた神様の名誉を傷付けることになります。だから、神様にかけて誓ったなら、必ずその約束は果たさなければならない、と言うことになっていました。しかしイエス様は、神様やそれ以外の自分の所有物でもない大きなものを使って誓いを立ててはならないと言っておられます。そもそも約束をしたなら、誓いをたてたものの大きさにかかわらず、どんな約束でも守るのが当たり前だ、ということかも知れません。約束事をするときに、出来ることは出来る、出来ないことは出来ないと正直に言えばよいので、そこで自分ではどうにもならない何事か持ち出して誓うのは、かえって不誠実なことだ、とイエス様は言っておられるのかも知れません。始めから出来ない約束はせず、約束を果たせなかったときには他の誰かに責任を押しつけずに、相手に謝ることが大事です。
2023年11月12日
怒りには、不当に虐げられた人を気の毒に思い、愛する人を守ろうとするが故に起きるものもあります。しかし、普段からいつでも何かに怒っている人は、単に怒りっぽい人です。自分の意見、主張を相手に伝える時に、怒鳴り声や恨み言や、相手に対する攻撃的な方法を使えば、その場では相手を言いなりに出来るとしても、人間関係は悪くなります。ヤコブの手紙1章19節で、怒るのに遅くある前に「聞くのに早く、話すのに遅く」あるようにと教えるのは、単におしゃべりの順番を待つようにというのではなく、自己主張を優先しないようにしなさい、という事かも知れません。我を通そうと焦らず、腹立たしくても穏やかに語りかけ、時間をかけて説得することが、隣人愛に生きるキリスト者に相応しい姿なのだと、聖書は教えているのかも知れません。