イエス様は、ルカ福音書8章などに記された「種まく人のたとえ」で、種を神様のお言葉に、大地を人の心や人生の状況になぞらえておられます。しかし、ヨハネ福音書15章5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と、イエス様と私たち人間が一つにつながって生きる植物になぞらえられています。宣教者パウロは、大地をキリスト、そこに根を下ろす植物を、私たち人間になぞらえています。こうした植物のなぞらえに共通しているのは、どれも暖かな春に起きるということです。ただし、聖書の世界であるイスラエルを含む地域特有の気候として、3月の春からはほとんど雨の降らない乾期が始まります。植物は根をしっかりと下ろして、命の水を大地から吸い上げなければなりません。新しい命は暖かさの中から始まり育まれます。同時に、身体を作り上げ成長する為の水や栄養を、十分に受け取る必要もあるのです。命の力に満ちたイエス・キリストから恵みの力を豊かにいただく人は、信仰がますます成長していきます。その結果、感謝があふれるばかりに豊かに実る人生となるのです。
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2023年3月19日
イエス様はルカ福音書8章5節で「種を蒔く人のたとえ」としてお話ししておられます。つまり、このたとえ話は、種になぞらえられている人間の性質とか、信仰が実を結ぶようになるかどうか、ということ以前に、神さまの赦しの愛、救いの恵みを種まきのように語り伝える人がどのような存在なのかと言うことが語られているようです。種まきをする人は、わざわざ耕していない土地や、道ばたに種まきをしたりはしないものです。良く耕した土地に種は蒔かれます。しかし、それでも小さな種は、思った通りの場所ではないところに落ちるのです。それでも種蒔く人は、種を蒔きます。芽が出ない場所に蒔かれたものが実を結ぶと期待してではなく、蒔くべくして蒔いたものが必ず実を結ぶと期待しているからです。種蒔く人は、季節が巡ればまた種を蒔きます。再び豊かな実が実ると期待し、新しく耕された畑に種は蒔かれ続けます。神さまの愛を語り伝えるイエス様の言葉は、何度でも語り伝え、人を新たに清め、救い続ける、恵み深い言葉です。
2023年3月12日
家畜化された羊は、自分の毛が伸びすぎると人の手で刈ってもらわないと、身体に汚れがたまり、健康を損ないます。羊は、同じ場所の草を食べ続けるという習性がみられるので、羊飼いは草がなくなる前に、群れを連れて移動し続けます。狼に襲われると、反撃することができずに散り散りに逃げ出します。羊飼いは、杖や鞭を使い、狼を追い払います。ですから、羊飼いがいない羊の群れは、とても困ってしまうでしょう。人間は羊とは違い、自分で身体の手入れを行い、自分で食事の準備をし、自分で危険に備えることが出来ます。しかし、心や人生という、目に見えない事柄では、何が自分に必要なのかも解らず、思いがけず傷つき、癒し方を知らずに病むことがあります。集まった人々をご覧になるイエス様は、人々の姿を羊飼いのいない羊の群れのように感じ、深く憐れんで下さいます。そして、神さまの言葉によって慰め、励まし、奇跡を伴う働きによって、人々の人生に健やかさを与え、痛みを癒し続けて下さいます。イエス様は人々の羊飼いなのです。
2023年3月5日
新約聖書においてファリサイ派は、「偽善者」と呼ばれることもあり、悪人の代表のような印象を持たれることもあるかも知れません。しかし、多くのファリサイ派は真面目で立派な人々でした。彼らは庶民階級の代表であり、腐敗した宗教者に対抗して、聖なる生活を志す信徒たちの代表的存在でした。だから当時、多くの人々がファリサイ派に加わったのです。しかし、自分たちが聖なる生活を志しているという自負が、そうではない人々を蔑むという高慢さを引き起こすこともありました。これは、キリスト者にも起こりうる問題です。神様を信じる人は、神様と1対1の人格的関係に生きる人です。誰かと比較して信仰や正しい生活の優劣を気にしたりしません。神様からいただく赦しの愛をいただき、隣人を自分のように愛する新しい命に生きる人へと変えられ続けるのです。
2023年2月26日
新約聖書時代のガリラヤ地方は、純血のユダヤ人以外の人々が多く住んでいたので、「異邦人のガリラヤ(15節)」と呼ばれる事もありました。「異邦人」という表現には2つの意味があります。1つ目の意味は、単に外国人、という意味です。2つ目の意味は、聖書の神さまを信じていない人、という意味です。どちらも、それ自体は悪い意味ではありませんが、極端な純血主義のユダヤ人からは蔑みの言葉としても使われていたかも知れません。同じガリラヤ地方のカナという町の出身とされるナタナエル(ヨハネ21:2)は、イエス様がガリラヤ地方のナザレ出身と聞いて侮っていたようです(ヨハネ1:46)。同じガリラヤ地方の出身者ですらそうだったのです。しかし、そんなガリラヤ地方出身者として、イエス様は神さまの救いのお働きを始められました。イエス様と弟子たちは、後に、エルサレムを始め、色々な場所に行かれますが、拠点として、戻ってくる場所はガリラヤ地方だったようです。人々が期待してないところに突如として現れた神さまの働き人、救い主イエス様の存在は、闇夜の道を照らす灯火のように、人々の心を照らし、思いがけない神さまの恵みを喜んだことでしょう。神さまの救いの働きは、思いがけない時、思いがけないところに差し込む暖かな光です。
2023年2月19日
新約聖書時代のガリラヤ地方は、純血のユダヤ人以外の人々が多く住んでいたので、「異邦人のガリラヤ(15節)」と呼ばれる事もありました。「異邦人」という表現には2つの意味があります。1つ目の意味は、単に外国人、という意味です。2つ目の意味は、聖書の神さまを信じていない人、という意味です。どちらも、それ自体は悪い意味ではありませんが、極端な純血主義のユダヤ人からは蔑みの言葉としても使われていたかも知れません。同じガリラヤ地方のカナという町の出身とされるナタナエル(ヨハネ21:2)は、イエス様がガリラヤ地方のナザレ出身と聞いて侮っていたようです(ヨハネ1:46)。同じガリラヤ地方の出身者ですらそうだったのです。しかし、そんなガリラヤ地方出身者として、イエス様は神さまの救いのお働きを始められました。イエス様と弟子たちは、後に、エルサレムを始め、色々な場所に行かれますが、拠点として、戻ってくる場所はガリラヤ地方だったようです。人々が期待してないところに突如として現れた神さまの働き人、救い主イエス様の存在は、闇夜の道を照らす灯火のように、人々の心を照らし、思いがけない神さまの恵みを喜んだことでしょう。神さまの救いの働きは、思いがけない時、思いがけないところに差し込む暖かな光です。
2023年2月12日
心理学者マーティン・セリグマン博士によって提唱されている「ポジティブ心理学」は、心の健康を回復させ、保つ研究をしています。「ポジティブ心理学」において「感謝される」ことではなく、「感謝する」ことは、自分がすでに相手から何らかの利益を得ていることに気付くことであり、感謝する人自身の幸福感を高めることが知られています。しかし、「感謝する」ことは無理矢理に見つけるものではありません。テサロニケの信徒への手紙第一5章18節では、「どんなことにも感謝する」という言葉があります。「どんなことにも」と訳されたギリシア語「パス」は、「全体的なことと、個別の事柄に注目すること」と定義されています。すると、「どんなことにも感謝する」というのは、一つ一つの事柄の中に感謝することもあれば、いまいち感謝できないことや災いを被ることもある人生そのものを全体的に感謝することも出来る、ということではないでしょうか。禍福はあざなえる縄のごとし。キリスト者は、人生は色々あるけれども、やっぱり生きていて良かったと思い、命が神さまから与えられていることを、全体として感謝することが出来るのではないでしょうか。「どんなことにも感謝する」ことが出来る幸いを、神さまは備えていて下さるのです。教会にも色々なことがあります。時には腹立たしいことや悲しいこともあるでしょう。でも全てを振り返れば、やっぱり「どんなことにも感謝する」ことが出来るのではないでしょうか。教会創立記念日、おめでとうございます。
2023年2月5日
古代社会では、義務教育制度はなかったので、文字を読み書き出来る人は、ごくわずかでした。印刷技術もなかったので、人が手で書き写していました。聖書の世界では長期保存する文章の場合は羊皮紙で巻物に書かれ、メモや簡易的な書類の場合はパピルスが使われました。紙やインクの類いは、現在に比べて高価だったので、本(巻物)を所有しているのは学者か宗教者のような人々に限られていました。従って聖書の時代の人々にとって、聖書は自分で読むものではなく、祭司や牧師が読み聞かせてくれるものだったのです。ネヘミヤの時代、祖国を失ったユダヤ人たちは、国際情勢の変化によってパレスチナ地方に国を再建することが出来るようになりました。かつての繁栄した都市の姿は失われており、廃墟となった土地を再び都市へと発展させた人々の労苦は、大変なものだったでしょう。苦難の中にある彼らのよりどころは、神さまのが自分たちを守り導き、再び自分たちの国を立て直させて下さるという祝福の言葉でした。しかし、残念なことに長い苦難の生活の中で、彼らは自分たちの母国語であるヘブライ語を失ってしまったのです。そこで、祭司や学者たちは神さまの言葉である聖書を、人々が解る言葉(おそらくアラム語)に翻訳し、そしてその内容についての説明を語り伝えました。これが現在のキリスト教会における「礼拝説教」の原点とも言われています。解る言葉と解る内容で神さまの言葉が伝えられる時、人の心に神さまの恵みが伝わるのです。
2023年1月29日
マタイ福音書20章1-16節でイエス様は、「天の国」をぶどう園になぞらえておられます。この「天の国」は神様を信じる人が死後に召される場所という意味と、神様を信じる人が待ち望んでいる理想的世界という二重の意味があるようです。たとえ話のぶどう園は、日々労働者を必要としています。ぶどう園の主人は夜明け前から町の広場に行き、雇われ待ちの労働者を雇います。ところが、ぶどう園の大きさに対して、労働者が足りなかったようです。その後も夕方になるまで繰り返し広場を訪れ、労働者を雇います。最終的に広場にいた、雇われ待ちの労働者を全員雇ったようです。日も暮れて、1日の仕事が終わり、給料を払う時、後に来た順に約束通りの給料を払います。その額は全員が約束通り、1日の報酬として相応しい額でした。労働の報酬は目に見える賃金だけではなく、良き職場に招かれるという喜びがあります。全員がこの喜びを受け取ったのですが、より多く感謝したのは、より多く待ち望んだ人でした。自分が選ばれたことを当然と思うと、感謝は小さくなります。「天の国」とはそういう場所であるとイエス様は言っておられます。
2023年1月22日
バビロニア帝国はメソポタミア地方を中心に広大な領土を持っていました。ダニエル書に登場するネブカドネザル2世は、自分たちの支配者であったアッシリア帝国に勝利して独立国家を樹立、荒廃していた首都バビロンを再建し、イスラエル王国などの小国、地域を併合した英雄的人物です。しかし、ダニエル書ではネブカドネザル2世が、精神的不安定さを抱えていた様子を記しています。自分の見た夢について内容を教えぬままに解釈せよ、解釈出来ない賢者は皆殺しにするという命令もその一つです。ダニエルは神様から知恵を授かり、ネブカドネザルの夢を解き明かします。しかし、ネブカドネザル王の心を動かしたのは、夢を解き明かされたからではなかったかも知れません。というのも、解き明かしが正しいかどうかは、実際に預言が起きてみないと解らないからです。ネブカドネザルが46節以下で大いに心動かされた様子なのは、彼が抱いていた言い知れぬ不安を言葉にして表現してもらったからではないでしょうか。栄枯盛衰、しかし滅びるものも一つの像、一つの世界の一部、来るべき栄光の世界の前触れとなるというダニエルの預言は、不安を抱えながらも日々国を豊かにしたいと願い働く孤独な支配者の心に希望を与えたのかも知れません。ネブカドネザル王は、ダニエルの言葉を通して、自分自身を見守っておられる、真の神様の愛のまなざしを感じたのではないでしょうか。