新約聖書のギリシア語では「50」を「ペンテコステ」と言います。そこでイースターから50日後をペンテコステ(五旬節)と言います。聖書の舞台であるイスラエル(ユダヤ)では、五旬節は収穫の時期であり、神さまに収穫を感謝する節目の祭りが行われていました。多くの人々は祭りを祝うために、神殿があった首都エルサレムに集まっていたようです。イエス様はすでに天国に行ってしまわれたので、後に残された弟子たちは、自分たちでイエス様から教えていただいた神さまの恵みを人々に伝えていかなければなりませんでした。しかし、弟子たちはイエス様のあとをついて活動してきたのです。突然イエス様という優れた指導者を失った人々は、自分たちが何をすれば良いのか解らなくなっていたのかも知れません。弟子たちが五旬祭を祝うために集まった時、他のユダヤ人たちと同じように仲間同士で集まっていました。するとそこに、突然激しい風が吹いてくるような音がしました。「~のような音」とあるように、実際には風は吹いておらず、風の音は彼らの心に聞こえた音だったのでしょう。風というのは聖書では旧約のヘブライ語では「ルアハ」新約のギリシア語では「プニューマ」という言葉で表現されます。どちらも「霊」とか「息」と言う意味があります。弟子たちの心に聞こえた「霊」の音は、彼らを奮い立たせ、神の恵みを待ち望む人々にイエス・キリストの救いを語り伝えようとする力を与えました。
アーカイブ
2023年5月21日
キリスト教の宣教者として、広く名を知られていたパウロは、自分を「最もつまらない者」と呼びます。どれだけ人から良い評価を受けていたとしても、パウロは思い上がることが出来ませんでした。というのも、もともとパウロは、キリスト教の熱心な迫害者だったからです。しかしパウロはいつでも謙遜でいられたわけではないかも知れません。使徒言行録9:3によれば、パウロが幻の中でイエス様から直接、キリスト教の伝道者として任命されています。この神秘的な出来事は、パウロの回心に欠かせないことでした。パウロはこの経験によって、自分を使徒(エフェソ1:1)と呼びます。使徒というのは当時の教会で最高指導者たちを意味していました。第Ⅱコリント10:10によれば、「パウロは手紙では偉そう」だったようです。強い信仰の故に、パウロは思い上がりと、謙遜との間を常に揺れ動いていたのかも知れません。パウロはそんな自分に気付いていたからこそ、「最もつまらない者」と言うのでしょう。しかし、そんな弱さのある自分に対して、キリストの恵みを伝える大役が委ねられているとパウロは言います。神さまは弱さある人を用いて、力強い救いの恵みを広く人々に注いで下さる方です。
2023年5月14日
イエス様の12弟子であるヤコブとヨハネは、母と共にイエス様のところに行って、出世を願いました。息子たちが自分たちの出世を、母の口から願わせるというのは、どうにも情けない気がします。しかし、もしかすると彼らの母の方が、息子たちの出世について積極的だったのかも知れません。彼らはガリラヤ湖の漁師でした。マルコによる福音書3章17節では「雷の子」というあだ名がついており、ルカによる福音書9章54節では、イエス様を歓迎しなかった人々を見て、「彼らを滅ぼしましょうか」と行っています。気が短い、荒々しい漁師の姿が思い浮かびます。そんな兄弟を産み育てたお母さんが、気の弱いなどというわけがありますまい。二人の息子を引き摺るようにしてイエス様のところに行き、息子の出世を確約して欲しいと、はっきり願う、強く、愛に満ちた母の姿が思い浮かびます。彼女の願いはかないます。但し、神さまは彼女の予想を超える形で、息子たちを十字架の愛に生きる人として出世させました。母の願いは、今もなお十字架の救いによって輝き続けています。
2023年5月7日
イエス様がたとえで用いておられる「からし種」がどの植物のことなのかについては諸説あります。近頃は日本でも野菜として栽培されている「カラシナ」は、成長しても1mくらいの草なので、鳥がとまるには細すぎます。そこで現代ではほとんど栽培されていない「クロガラシ」だったのだろう、と考えられています。「クロガラシ」は、2mくらいまで成長し、細いながらも枝が伸びて小鳥が巣を作ることが出来そうです。枝が細かく分かれているので、小鳥にとっては外敵から身を守ってくれる木なのかも知れません。「クロガラシ」の実は、現代の「洋からし」よりも香りが高く、古代社会では胃薬、咳止め、湿布薬などとしても用いられていたようです。有益な植物ですが、現在栽培されなくなったのは、機械での収穫が困難だからなのだそうです。イエス様は人間の手作業によらなければ育てられない木に天の国をなぞらえておられるのかも知れません。天の国は機械的効率ではなく、人と人との暖かな関係の中に大きく現れていくのかも知れません。
2023年4月30日
創世記1章30節によれば、全ての動物は、草食動物であったようです。人間を含め、動物たちが肉を食べるようになったのはエデンの園を出てからになるようです。象徴的な意味として読むなら、自らの命のために、他の動物の命を得るということは、罪が世界に発生した影響である、という解釈が出来るでしょうか。神様は人間や肉食動物に、ベジタリアンになるようにとは命じてはいません。肉を食べることそのものが罪ではないのです。しかし、イザヤ書65:25では、狼と小羊が共にいることが理想の世界として描かれています。救い主の働きによって、他の命を奪うことなく生きることが出来る世界が現れることを示されているようです。
2023年4月23日
イエス様が復活された後、天使を通して復活が知らされました。先ずイエス様が復活したであろうことを伝えたのは女性たちだったようです。ヨハネ福音書20章ではマグダラのマリアの前にイエス様が現れたようです。復活の恵みを伝える第一の伝道者は女性たちだったのです。聖書における女性は、社会的立場の弱い存在の象徴でもあります。聞いた人々はなかなかイエス様の復活を信じる事は出来ませんでした。しかし、そんな人々のところに、イエス様は共におられました。エマオに向かう二人の信仰の目は開いていませんでしたが、イエス様は共に歩んで下さっているのです。
2023年4月16日
野生動物の世界では、親であっても食事や水を得られない時は、子を見捨てることは少なくありません。生物の生存本能に従えば、危機の際は自分の命を最も優先するものです。まして、経済動物である羊のために人が命を棄てるというのは、本能だけではなく合理性からもありえないことでしょう。しかし十字架によって、神様が人に示される愛は、羊飼いが羊を愛して命を棄てるほどにありえない愛なのだ、とイエス様は言っておられるようです。
2023年4月2日
聖書の時代、病気や怪我は人の罪に対する神さまの罰である、という考え方がありました。従って症状の重さは、そのままその人の罪深さを表しているということになります。病気の人々は、社会から隔離することが旧約聖書の中で繰り返し命じられていますが、感染病の理由が分からなかった当時の人々にとっては、最善の対策であったのでしょう。しかし、防疫としての隔離は宗教的、思想的差別に結びつき、本来は癒された後に社会に復帰できるはずの人々が、差別を受けたままになったり、癒された人々自身が社会に戻ることをためらう状況が生み出されていたのかも知れません。「重い皮膚病」と訳されたギリシア語「レプロス」は伝統的にハンセン病を意味すると考えられてきました。しかし、旧約聖書のヘブライ語で重い皮膚病を意味する「ツァラート」は、ハンセン病だけではなく、皮膚病全般を意味していたと考えられています。そこで新共同訳聖書ではハンセン病と訳さず、重い皮膚病と訳しています。イエス様によって癒された十人の内、感謝の言葉を述べに戻ってきたのはサマリヤ人ただ一人でした。サマリヤ人は、ユダヤ人からすれば最も罪深いとされる異端のサマリヤ教の信仰者です。侮られ、神の救いから最も遠いと見なされていた人が、最も始めにイエス様のもとに立ち返ったのでした。より多く赦されたとの思いがある人は、より多く愛するのです(ルカ7:47)。しかし、イエス様は九人を忘れてはおらず、赦しの愛に気付かぬ彼らがいつか立ち返ることをも、待っておられるのではないでしょうか。
2023年3月26日
イエス様は、ルカ福音書8章などに記された「種まく人のたとえ」で、種を神様のお言葉に、大地を人の心や人生の状況になぞらえておられます。しかし、ヨハネ福音書15章5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と、イエス様と私たち人間が一つにつながって生きる植物になぞらえられています。宣教者パウロは、大地をキリスト、そこに根を下ろす植物を、私たち人間になぞらえています。こうした植物のなぞらえに共通しているのは、どれも暖かな春に起きるということです。ただし、聖書の世界であるイスラエルを含む地域特有の気候として、3月の春からはほとんど雨の降らない乾期が始まります。植物は根をしっかりと下ろして、命の水を大地から吸い上げなければなりません。新しい命は暖かさの中から始まり育まれます。同時に、身体を作り上げ成長する為の水や栄養を、十分に受け取る必要もあるのです。命の力に満ちたイエス・キリストから恵みの力を豊かにいただく人は、信仰がますます成長していきます。その結果、感謝があふれるばかりに豊かに実る人生となるのです。
2023年3月19日
イエス様はルカ福音書8章5節で「種を蒔く人のたとえ」としてお話ししておられます。つまり、このたとえ話は、種になぞらえられている人間の性質とか、信仰が実を結ぶようになるかどうか、ということ以前に、神さまの赦しの愛、救いの恵みを種まきのように語り伝える人がどのような存在なのかと言うことが語られているようです。種まきをする人は、わざわざ耕していない土地や、道ばたに種まきをしたりはしないものです。良く耕した土地に種は蒔かれます。しかし、それでも小さな種は、思った通りの場所ではないところに落ちるのです。それでも種蒔く人は、種を蒔きます。芽が出ない場所に蒔かれたものが実を結ぶと期待してではなく、蒔くべくして蒔いたものが必ず実を結ぶと期待しているからです。種蒔く人は、季節が巡ればまた種を蒔きます。再び豊かな実が実ると期待し、新しく耕された畑に種は蒔かれ続けます。神さまの愛を語り伝えるイエス様の言葉は、何度でも語り伝え、人を新たに清め、救い続ける、恵み深い言葉です。