「お元気ですか」と挨拶する時は、身体的な健康と、心が活き活きとしているかどうか、という2つの状態について尋ねています。ヨハネの手紙第三2節で、「健康」と訳されたギリシア語「ヒュギアイノー」は身体的健康のことを、「恵み」と訳された「エウオドー」は心の健康のことを意味しているようです。「エウオドー」は「良い」を意味する接頭辞「エウ」と「道」を意味する「ホドス」という名詞の合成語です。「道」は人生にもなぞらえられますので、「良い道」と言う場合は「良い状態」とか「良い選択」という意味でも用いられます。身体の健康は大事なことですが、魂が良い状態であることはもっと大事です。ギリシア語では心は「カルディア」霊/精神は「プニューマ」と言います。魂と訳される「プシュケー」は内的命、人格そのものです。心が傷つき、病んでいても、魂は健全で、活き活きと生きることが出来る恵みが、イエスさまの十字架の恵みです。
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2022年10月30日
イザヤ書43章は、旧約聖書の舞台であるイスラエル/ユダ王国が滅び、故郷から強制的に人々が移住させられた、バビロン捕囚後の人々に向けて記された言葉です。侵略を受けて破壊された日々の生活を思い出し、慣れぬ異国の地で苦労する人々は、自分たちは神様から見捨てられた存在であると感じ、悲しみに満ちていたことでしょう。しかし、神様は人々を見捨てたのではなく、罪深さを打ち砕き、罪から清めたのでした。金銀は精錬されて、宝石はカットされ、磨き上げられて本来備わっていた輝きを得ます。神様は人を価値高く、尊いと思うからこそ、人を清める試練の炎は強く、罪深さを取り去るのです。
2022年10月23日
聖書を読むことが神様からの言葉を聞くこととすれば、祈りは、神様に向かって語りかける時間です。会話は一方的ではなく、相互の関係によって成立します。ですから、聖書と祈りは切り離せません。テモテ第一2:1にある「願い」「祈り」「執り成し」「感謝」は、どれも祈りと訳すことが出来る言葉です。このような祈りは、自分のためや、家族や仲間のためだけではなく、「全ての人のために」、続く2節では、王や高官たち、キリスト教信仰を持たない世俗の為政者たちのためにも祈りなさい、と聖書は言います。政治、思想、宗教の違いがあっても、神様は全ての人を愛しておられ、救われて欲しいと願っておられます。
2022年10月16日
イザヤ書11章は「エッサイの株からひとつの芽が萌え出で・・・」という言葉から始まります。これはイエス様についての預言であったと、キリスト教会は信じています。6-9節では、肉食獣と草食獣が共に仲良く生活するという幻が描かれます。人間社会は、国と国、民族と民族、さまざまな対立があり、争いが絶えません。強い者が弱い者を食らう弱肉強食はどこにでも見られます。しかし、イエス様はそのような世界に平和と調和をもたらすために来られたと聖書は教えています。
2022年10月9日
マタイによる福音書11章17節は、当時の「あまのじゃく」を意味する格言として用いられていたのかも知れません。バプテスマのヨハネは修行としてしばしば断食しましたが、その姿は「悪霊にとりつかれている」と馬鹿にされました。ところが逆に、イエス様があまり断食をせず、多くの人々と会食を楽しむと、「大食漢で大酒のみだ」と欲深だと馬鹿にされました。世の中の評判は、内容の良し悪しではなく、相手に対する印象で決まったり、先に攻撃しようという悪意によって、評価がねじ曲がったりします。しかし、神様の救いの働きは、まっすぐ進みます。人がなんと言おうと、正しく生きる人を、神様は助けて下さるのです。
2022年10月2日
災害や戦争、人間にとっての災いは尽きることはありません。しかし、神様がこの世界を造られた時、全ては良いものであった、と聖書は言っています。この世界に災いが認識されるようになったのは、人が神様の忠告を無視して、善悪の知識の木の実を食べた後からです。人間が欲望に身を委ねて、自己中心になった時に、あらゆる良いものの中に、悪が生じたのでした。科学技術も自然も、それ自体は良いものでも、人が自己中心の欲望に支配されると、悪となることがあります。原子力技術は、その最たるものかも知れません。しかし、イエス様は十字架で自らを献げる姿を通して、人が自己中心の罪から解放される道をお示し下さいました。人が救われるとき、人だけではなく、世界もまた良いものとして生まれ変わるのです。
2022年9月25日
出エジプト記において、神様はモーセを神の民のリーダーとして選ばれました。しかし、モーセは自分にはそんな大きな仕事は出来ないと怖じ気づいて、何度も断ります。10節によれば、モーセは、自分は話すことが苦手だから、多くの人々に対して神様の言葉を伝え、人々の生活を良い方向へと導くことは出来ないと思っていたようです。しかし、神様はモーセに対して、あなたがいつでも話す必要は無い、話すことが得意な兄弟に仕事の一部を任せれば良い、と言いモーセを説得します。16節「神の代わり」は、何か立派な人になるというのではなく、話し手が話す内容を準備するスピーチライターのことです。リーダーシップに求められる仕事は一人が全てを担うのではなく、複数人が協力して行うことが出来ます。神様を信じて生きる人には、大きな仕事を信頼し委ねることが出来る仲間が備えられます。
2022年9月18日
ヨハネ黙示録14:2では、「何々みたいな」を意味するギリシア語「ホース」が三回使われています。この「ホース」がついていない唯一の単語が「音」です。「音」を聞いた著者は、時に、荒々しい水の流れや、雷鳴のように、時に、美しく調和した竪琴の音色のように聞こえた、と表現しています。この「音」と訳されたギリシア語「フォーネーン」は「言葉」「スピーチ」という意味でもあります。著者ヨハネは、幻の中で、天国から地上に向けて語りかけ続けている多くの魂の声を聞いた時、時に荒々しく、時に慰め深く聞こえたのでした。神様への導かれる救いの言葉は、時に厳しい罪の指摘があり、そして同じ神様の言葉が、時に心慰める、慰め深い音として、人の心に響きます。
2022年9月11日
イエス様のなさった奇跡は、その場で起きた出来事と、象徴的な教えという二重のメッセージがあります。ヨハネ福音書9章の出来事では、生まれつき目の見えない人が癒やされます。この癒やしは実際の視力だけではなく、人を愛し、救いたいと願う神様をイエスさまのお姿のなかに見いだすことが出来る、心の視力が与えられています。一方、学歴や身分にこだわった人は、奇跡を見ても神様の救いを見いだすことは出来ませんでした。見よ、この人を(エッセ・ホモ)。
2022年9月4日
新約聖書のギリシア語で「真理」と訳される「アレーセイア」は、本当のこと、という意味の他に、「正直」「高潔」と訳される場合があります。思ったことをそのまま言うのは、本当のことかも知れませんが、高潔ではないかも知れません。ヨハネ福音書16章13節の「真理の霊」は、神様とイエスさまのお言葉を人々に教え伝える存在です。ただ聞いたことを繰り返すのではなく、相手が理解出来るように語り伝えます。聖書の言葉を「悟る」時、また、聖書の言葉を教えようとする人には、真理の霊が働いて下さるのかも知れません。