ルカ福音書14章1-6の出来事では、4節と6節、2回の沈黙が印象的に記されています。この沈黙の中には、イエス様に対する反感、社会常識や宗教的理念に対する情熱、苦しむ人への憐れみ、神の癒しへの期待など、人々の心の一様ならぬ、言葉ならぬ言葉が現れているようです。沈黙の中には敵意や悪意も潜んでいますが、好意や善意も潜んでいます。言葉によって賛同を示す味方は心強い存在です。しかし沈黙の中に行動を共にする味方も大いに喜ばしい存在です。神様は、沈黙する人々の中に、味方を備えて下さいます。
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2022年8月21日
新約聖書の時代、病気や障害を受けることは、神様から罰を受けた、罪深さの証であると考える人が多くいたようです。病が重ければ重いほど、治りにくいほどに、神様の怒りがその人に注がれていると考える人もいたようです。そこでイエス様は、病や障害に苦しむ人を癒やされる時、罪が赦された、と宣言されます。この宣言は、罪深い人とされた病人本人への慰めと励ましだけではなく、身体的には健康な人々へ、どんなに罪が深いとしても神様は赦しの愛を注いで下さるという宣言でもあります。ルカ5:20でイエスさまは、病が癒やされた本人ではなく、連れてきた人々の信仰を見ておられます。周りの助けによっても、神様の赦しの愛は注がれるのです。
2022年8月14日
民数記22章の預言者バラムとロバの物語を寓話として読むと、人と人との関係でも起こりうる問題を指摘する教訓となっています。信頼関係があるはずの相手とのすれ違いが起きると、好意が悪意に取られ、忠告が生かされなくなります。思い上がりが、相手への先入観を生み出し、相手を傷つけてしまうこともあります。しかし、人の罪深さによってすれ違う人間関係の只中に、神様が介入して下さると聖書は教えています。ローマ8章26節では、聖霊が上手く言葉で伝わらない心の思いを伝えて下さり、神と人、人と人の関係をとりなして下さる、と励ましています。キリストを信じる人々の中から、この霊の恵みは広がります。
2022年8月7日
アブラム(後のアブラハム)は、故郷を離れてカナン地方へ移住してきました。アブラムを受け入れてくれたのは信仰・思想の異なる外国人であるアモリ人マムレでした。神様は信仰のある人だけではなく、信仰がない人の神様でもあります。樫の木やテレビンの木は、神様のご意志が現れる象徴的な木です。マムレの土地であるヘブロンは、後に罪赦された者の住む土地となります。樫の木の木陰を通して、おそらくマムレと彼の一族もまた、アブラムと共に神様を信じて生きる者へと変えられたのではないでしょうか。寄らば大樹の陰。神様に頼る人は確かな平安を得ます。
2022年7月31日
カール・バルトは少ししつこい婦人から永遠の生命についてたずねられた。「先生、教えて下さい。私たちは天国で、私たちの愛している人々にみな再会するというのは、本当に確かなのでしょうか。」バルトはその婦人を鋭く見据えてから、おもむろに、しかし力をこめて言った。「確かです。――だが他の人々とも再会します。」(ハンス・フォン・カンペンハウゼン「笑いの伝承」)神様の救いは、必要としており、真摯に求める人であれば誰にでも与えられます。天国には罪が赦され、人生が清められた人であれば誰でも入れていただけます。かつて罪深かった人々が大勢いるでしょう。考え方が合わない人、争った相手、自分を傷付けた相手や、自分が傷付けた相手とも天国で再会するかも知れません。天国は赦され、赦し合う人々が集う場所です。地上の教会はその前味です。
2022年7月24日
イエス様は、先祖や親の信仰に関係なく、神様とその人との個人的な関係性のなかに救いがあることを教えておられます。ヨハネ福音書8章44節では自分たちの信仰に賛同しない人を、社会から取り除こうとして殺意を抱くのは、神様の御心に従う人として相応しくない、と教えられています。11節で示されたように、神様が人に向けておられる愛は、罪人を赦す愛です。過ちを犯し、破滅に向かって歩む人を、赦しの愛によって新しい命を与え、活き活きと生きることが出来るようにして下さる愛です。自分と異なる思想、信仰を抱く人を排除せず、罪を犯した人を、自分も赦された者として赦していくことが出来ます。背くことも、悔い改めることも、誰にも強いられることなく、自由な恵みとして与えられています。イエス様を通して示された神様の真理は、人を自由にする愛の恵みです。
2022年7月17日
コリントの信徒への手紙第一10章では、出エジプトの出来事を、イエス様を信じた人の姿になぞらえています。かつてエジプトで奴隷状態となっていた神の民ヘブライ人は、神様につかわされたモーセに従い、多くの奇跡の働きを経験し、自由を得ました。神様とモーセは、人々を自由にしたのだから、あとは各々に任せても良かったでしょう。しかし、約束の地カナンへと導くことにし、人々が自分たちの自由な意思で人生を切り開いていくことが出来るようになるまで、準備期間を設けることにしました。それは神様の一方的な、見返りを求めない愛によるものでした。ところが、人々は段々と与えられることを当然と感じるようになり、もっと豊かにして欲しいと不満を言い出すようになりました。そして、労せず豊かにしてくれる存在を求めて、偶像礼拝を始めました。その結果、神様の怒りを招き、多くの人が自ら滅びに至ったのでした。イエス様を信じた人は救われ、永遠の命を得たと信じる人々です。ところが、それを当然と思い、労せず神様によって人生の豊かさや心地よさを得ようとするなら、出エジプトの人々と同じく、自らの心に偶像を作り出すことになります。足るを知る者は富む、強(つと)めて行なう者は志有り。と言います。足らないと不満をいうのではなく、必要なものは既に与えられていると信じ、神様に感謝して日々の生活に努める人は、朽ちぬ財によって豊かになっていくのではないでしょうか。
2022年7月10日
19世紀アイルランドの詩人、オスカー・ワイルドは、「Be yourself; everyone else is already taken(あなた自身になれ、他のあらゆる人はすでに取られている)」と言ったそうです。人間は、比較をする生き物です。自分自身が何者であるのか、何が出来るのかを知ろうとして、他者と比較することは避けられません。しかし、比較した結果、他人が自分よりも劣っていると見下したり、他人が自分よりも優れていると卑屈になる必要はありません。人はその人以外になることは出来ないのですから、競い、優れるべき相手は、昨日の自分であり、今の自分自身です。コリントの信徒への手紙第一12章では、教会に集う人々は、誰もがその人自身として神様によって形作られたと信じて、それぞれ得意なこと、苦手なことを助け合いつつ、協力して生きていく集団にされたと教えられています。かつて盲腸は不要の臓器と考えられた時代がありました、しかし現在では、免疫機能や、腸内細菌のバランス調整などの働きがあることが知られています。人も、一見すると集団の益になっていないようでも、その人に神様が与えられている働きがあるはずです。各々が自分らしく助け合うところに、新しい命の人生が広がって行きます。
2022年7月3日
多くの場合、誰かが、自分のために対価なしに、あるいは対価以上に何かをしてくれたと感じたとき、感謝をします。しかし、神様に祈り願う時に、必ずかなうと信じるなら、まだ実現していなくても、先に感謝をすることが出来ます。もし信じて先に感謝するなら、神様がかなえて下さらないと解っている、私利私欲に関すること、罪深い願いを祈ることは出来なくなるでしょう。また願う内容は善であっても、神様を雇い人のように扱って、今すぐにかなえて下さいとか、何日後までにかなえてくださいというような、時間締め切りを指定する祈りをすることも出来なくなるでしょう。祈り願った結果が、自分の望んでいた未来ではなかった時、神様に感謝することは難しいかも知れません。しかし、十字架の死と復活の恵みのように、神様は人間の想像を超える働きをして下さる方です。祈り願う人が言葉に出来ない心の奥底にある「霊的」本質的願いを聞いて叶えて下さる方です。神様に人生を委ねる時、信頼から感謝が現れます。
2022年6月26日
同じような出来事があっても、感謝を言葉にするタイミングは、人によって違うことがあります。言葉にしなくても、行動で示そうとする人もいます。コンビニのレジで店員に「ありがとう」という人もいますし、そうすべき理由はないという人もいます。挨拶の一種と考えて感謝をする人もいれば、自分が与えた以上、期待した以上のものを提供された場合に感謝するという人もいます。一方、感謝されるべきと感じる時も、人によって違います。自分が感謝するタイミングと、感謝されたいタイミングが違うときもあるでしょう。しかし、自分がして欲しい時に感謝されなくても気にしないこと、それどころか自分がしたことは当然だから感謝は不要と言うようにと、イエス様は教えておられます。これは5節「信仰を増す」ための教えの一部です。神様に対しても、隣人に対しても、精神的な報いとしての感謝を求めずとも、自分の仕事の価値は正しく評価されると信じて誠実に働く人は、正しく報われます。