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2025年10月12日

健全な自尊心を持つことは大切なことです。しかし、自分を大切にするということを超えて、何でも自分中心になってしまったり、自分の都合で相手のある約束ごとを軽々しく変更したり破ったりすれば、信頼関係が損なわれてしまいます。軽々しくではなく、病気や体調、急な仕事など、やむを得ないと了解してもらえる事情があっても、約束ごとがたびたび破られるようではやはり信頼関係が損なわれてしまうかも知れません。個人の約束、政治の約束、組織の約束、どれも完全ではありません。約束が破られ、あるいは一部しか実行されないとき、人は失望を感じるでしょう。しかし、イエス・キリストは誠実さにおいて決して変わることがないので、救いの恵みについて約束を破ることがありません。時代と価値観の変化の中でも、イエス様は変わらない方として、人を愛し、罪人を憐れみ、救いへと導き続けておられます。この変わらざるキリストは、不完全な罪人が悔い改めて救われると信頼して下さっています。このイエス様を信頼する人は、人を過剰に信頼せず、イエス様の信頼において人を信頼する赦しの愛の心が与えられるのです。

2025年10月5日

「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」は、稲を10把で1束と数えることから生まれた言葉です。「いろいろな種類のものを無差別にひとくくりにする」という意味があります。しかしそこから転じて、無価値なものとして扱う、という意味で使われているようです。蔑む意味の無い本来の表現は、大きいのも小さいのも、みんな同じ稲として束ねるという意味ですから、人間の違いなど些細なことであり、みんな神さまの御手に包まれて仲良く、共に生きるのだ、という意味として使うことも出来るでしょうか。新約聖書の時代、雀はもっとも安価な食物の一つとして、十把一絡げに売られていました。一羽だけでは当時の小銭の単位である1アサリオン(数百円くらい?)で売ることすら出来なかったようです。しかし人間にとってはつまらない、価値の低いと見なされる存在でも、神さまは一人一人の魂を愛し、尊いものとしておられます。あらゆる人が神さまに愛され、尊ばれている十把一絡げとなって仲良く、共に生きていくことが出来ますように。

2025年9月28日

イエス様は、群れから迷い出た一匹の羊、家の中でなくした銀貨、家の財産を使い潰した息子、これらの価値あるものが、失われたと思っていたのに見つかる時、大いに喜ぶように、神さまは罪人が救われることを喜んで下さる方だと教えておられます。このような発見のたとえ話は、失われていたと思えても、実は本当に消えてなくなったのではなく、人間の側が自分の都合で神さまから離れて、その愛が見えなくなっていただけであり、神さまから近づき、探してくださってので、もう一度神さまの子どもとして、本来在るべきところに収まったのであり、必ずあると思ってなんとしても見つけようとして下さる神さまの、忍耐強い愛が示されています。しかし、今日の箇所ではむしろ人間の側が探すようにと教えられています。人間が何か足りないと思って追い求めている幸いの本質は、すでに神さまによって恵みとして備えられており、そう信じて探し続けるときに、発見することが出来るのだと教えられているようです。

2025年9月21日

癒された人々が夕方に来た理由については、色々な理由が考えられます。先ずこの日は安息日の日だったようです。ユダヤの一日の考え方は、日没から日没までです。日没後は次の日の始まりなので、夕方の日没後であれば安息日が終わり、新しい一週間が始まります。安息日が終わっているのだから、人々は安息日の違反行為として労働をしていると見なされることなく、安心して癒されることができました。次に、悪霊や病気の人は、当時の人々から汚れている、罪深いと見なされることがあったので、人目を開けて夕方にイエス様のところにやってきた、という理由があったのかも知れません。三つ目に、夕方は終わりの象徴でした。病気や悪霊に悩む人生が、イエス様との出会いによって終わり、神さまの愛によって新しい人生が始まったことを示しているのかも知れません。日本の文学の中では、日中が少なくなる秋は、夕暮れに重ねられ、悲しさや寂しさの表現として使われることがあります。しかし、イエス様の秋の夕暮れは、悲しみの終わりであり、喜びが始まる時なのかも知れません。

2025年9月14日

イエス様はたとえ話の中で、社会のなかで蔑まれ、孤立している罪深い人を、羊の群れからはぐれた一匹の羊になぞらえました。はぐれた羊は、羊飼いによって見つけられ助けられるのですが、助けられてなお一匹のままではなく、群れへと戻されます。罪深い者もまた、神さまによって救われ、悔い改めた後、同じ神さまによって養われる人々の中へと導かれていきます。このたとえ話の中では、残る99匹の羊の群れは、罪を犯していない正しい人の象徴でもあります。この正しい人々は、悔い改めた罪人を仲間として受け入れることが出来る神さまの愛による正しさに生きる人々です。しかし、99匹の羊たちも、別の時には迷い出る一匹の羊となる可能性があります。あるいは、99匹の羊たちもまた、かつては迷い出て再び連れ戻された一匹の羊であったのかも知れません。天にある大きな喜びは、神さまの喜びというだけではなく、神さまを信じ、共に生きる全ての存在が、自分自身のように喜ぶことが出来る、共同体全体の喜び、羊の群れ全体の喜びでもあるのかも知れません。迷える羊が、今日もイエス様によって導かれると信じます。

2025年9月7日

聖書の世界パレスチナ地方でも、9月がぶどうの季節です。麦は、秋に蒔かれて、春に収穫されます。詩編4編8節の言葉は、春と秋、二つの季節に共通する収穫の喜びを表現しています。続く9節では、平和と睡眠という表現が出てきます。収穫は喜びですが肉体的には疲れる仕事です。豊かに収穫できたからこそ、安心して疲れた身体を休めることが出来ます。もし不作であれば心穏やかならず、身体も心も十分に休めることが出来ないこともあるでしょう。だから聖書の信仰者たちは、実りの豊かさは、自分たちの努力や農業技術の結果だけだと思わずに、見えざる神さまの人間に対して平安を与え癒そうとして下さる愛の配慮があると信じたのでした。しかしいつでも実り豊かな時ばかりとは限りません。4編の前半は苦難と罪深さに悩む人の祈りです。人間的には十分な実りが得られていない時、失敗し落ち込んでいる時、自己中心的な罪深さに気付かされる時、罪を赦し清め、新しい人生を与えて下さる神さまの愛を思い起こす人は、天国を目指して生きる喜びに満たされるのです

2025年8月31日

ガラテヤ書6章7-8節では、肉と霊、両方に報いがあることが示されています。善と悪という表現ではなく、肉と霊と表現されているのは、目に見える事柄と目に見えない事柄という意味があるからでしょう。個人的に道徳的、倫理的に正しい生き方を志すというのは、霊というよりも肉的な部分、自分自身を満足させるために行うということもあるでしょう。しかし、この個所で教えられているのは、個人的に良い人になることの勧めというよりも、神様を愛し、隣人を愛し、互いに助け合うという人間関係が善と表現されているようです。神様の愛に基づき、互いに愛し合う人間関係は、すぐに完全な形で現れるわけではないということは、イエス様を直接知っていた、聖書の時代のキリスト者たちであっても、時に悩みつつ、教会ごとに人間関係の課題を持っていたことからも明らかです。しかし、飽きを感じるほどに、すぐには目に見えるほどに実現しなくても、神様の愛によって互いに愛し、仕える霊的人生が共同体として営まれているならば、必ず豊かな実を結ぶと聖書は教えています。

2025年8月24日

士師記の時代の神の民イスラエルは、各部族ごとの自治を行っており、各部族ごとの長老たちによる合議制が行われていたようです。それで部族間の対立があった場合、その調整役として「士師」が現れました。彼らは全部族の調整役であり、リーダーでありましたが、王家のような血縁によって受け継がれる役割ではありませんでした。「士師」は神さまが選び出して下さいますが、人々が承認することによって、リーダーの働きが出来るようになりました。その結果、「士師」が現れない時代もあり、混乱することもあったようです。士師記を締めくくる21章25節の言葉は、部分的な表現を含めれば、士師記の中で4回繰り返されています。この表現は、後にサウルとダビデによって始まる王制国家が、人々の願いによって始まった政治だったことを示しています。しかし同時に、王家がなくとも、神さまは士師を立てて人々を導き、助けて下さったという信仰宣言でもあります。王家のような安定したリーダーの存在は大事だけれども、一人一人の魂を導く存在は神さまご自身であることを忘れてはいけない、とこの聖書の言葉は教えているようです。

2025年8月17日

今年の夏は日本各地で水不足となっているようです。8月15日付のテレビ新潟のニュースによれば、新潟の上越市では水道水が不足する可能性があるとのことで、節水が呼びかけられていました。水を必要とする全ての人に、神さまの憐れみがあり、十分な水が与えられますようお祈りいたします。聖書の世界であるパレスチナ地方の夏は乾季であり、深く掘られた井戸は水が涸れにくく、人々を助けましたが、それでも時には井戸が涸れることもありました。尽きることなく流れ続ける川の流れは、人間のみならず全ての生き物を生かす命の源であり、命を与えて下さる神さまの恵みの象徴です。イエス様は、イエス様を信じる人の内側には、乾ける土地を潤し続ける川の流れのように、人を生かす神さまの恵みが流れて行くのだと教えておられます。イエス様を通して示された神さまの愛に生きる人は、渇いた心の人々を潤す隣人愛の水源地として、清めて用いられるのだと励ましておられるのではないでしょうか。

2025年8月3日

律法はもともと神様のお言葉だったので、本来の精神は人を助けるために与えられていたのです。しかし時代が降ると、もともとの意味が忘れられてしまったり、文化や環境が変わったことで、文字通り守る必要がなくなった律法もありました。また口伝律法と呼ばれた聖書には含まれていない掟も沢山ありました。人々は沢山の、時代にそぐわない、厳しすぎる内容や守り方が求められる律法主義に苦しんでいたようです。イエス様はそうした律法主義に反対され、沢山勉強したり、修行のような厳しさの必要な律法の守り方をするのではなく、神様の愛によって自分と他人をいたわることが全ての律法の中心であり、守らない人を厳しく裁くばかりの、神様の愛無しの律法主義では疲れてしまうと教えておられます。イエス様は神様の愛を人生に負う生き方は重さを感じない軽やかさがあり、自分と他人を自ずと生かす生き方へと変えられるのだと教えておられるようです。