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2025年8月31日

ガラテヤ書6章7-8節では、肉と霊、両方に報いがあることが示されています。善と悪という表現ではなく、肉と霊と表現されているのは、目に見える事柄と目に見えない事柄という意味があるからでしょう。個人的に道徳的、倫理的に正しい生き方を志すというのは、霊というよりも肉的な部分、自分自身を満足させるために行うということもあるでしょう。しかし、この個所で教えられているのは、個人的に良い人になることの勧めというよりも、神様を愛し、隣人を愛し、互いに助け合うという人間関係が善と表現されているようです。神様の愛に基づき、互いに愛し合う人間関係は、すぐに完全な形で現れるわけではないということは、イエス様を直接知っていた、聖書の時代のキリスト者たちであっても、時に悩みつつ、教会ごとに人間関係の課題を持っていたことからも明らかです。しかし、飽きを感じるほどに、すぐには目に見えるほどに実現しなくても、神様の愛によって互いに愛し、仕える霊的人生が共同体として営まれているならば、必ず豊かな実を結ぶと聖書は教えています。

2025年8月24日

士師記の時代の神の民イスラエルは、各部族ごとの自治を行っており、各部族ごとの長老たちによる合議制が行われていたようです。それで部族間の対立があった場合、その調整役として「士師」が現れました。彼らは全部族の調整役であり、リーダーでありましたが、王家のような血縁によって受け継がれる役割ではありませんでした。「士師」は神さまが選び出して下さいますが、人々が承認することによって、リーダーの働きが出来るようになりました。その結果、「士師」が現れない時代もあり、混乱することもあったようです。士師記を締めくくる21章25節の言葉は、部分的な表現を含めれば、士師記の中で4回繰り返されています。この表現は、後にサウルとダビデによって始まる王制国家が、人々の願いによって始まった政治だったことを示しています。しかし同時に、王家がなくとも、神さまは士師を立てて人々を導き、助けて下さったという信仰宣言でもあります。王家のような安定したリーダーの存在は大事だけれども、一人一人の魂を導く存在は神さまご自身であることを忘れてはいけない、とこの聖書の言葉は教えているようです。

2025年8月17日

今年の夏は日本各地で水不足となっているようです。8月15日付のテレビ新潟のニュースによれば、新潟の上越市では水道水が不足する可能性があるとのことで、節水が呼びかけられていました。水を必要とする全ての人に、神さまの憐れみがあり、十分な水が与えられますようお祈りいたします。聖書の世界であるパレスチナ地方の夏は乾季であり、深く掘られた井戸は水が涸れにくく、人々を助けましたが、それでも時には井戸が涸れることもありました。尽きることなく流れ続ける川の流れは、人間のみならず全ての生き物を生かす命の源であり、命を与えて下さる神さまの恵みの象徴です。イエス様は、イエス様を信じる人の内側には、乾ける土地を潤し続ける川の流れのように、人を生かす神さまの恵みが流れて行くのだと教えておられます。イエス様を通して示された神さまの愛に生きる人は、渇いた心の人々を潤す隣人愛の水源地として、清めて用いられるのだと励ましておられるのではないでしょうか。

2025年8月3日

律法はもともと神様のお言葉だったので、本来の精神は人を助けるために与えられていたのです。しかし時代が降ると、もともとの意味が忘れられてしまったり、文化や環境が変わったことで、文字通り守る必要がなくなった律法もありました。また口伝律法と呼ばれた聖書には含まれていない掟も沢山ありました。人々は沢山の、時代にそぐわない、厳しすぎる内容や守り方が求められる律法主義に苦しんでいたようです。イエス様はそうした律法主義に反対され、沢山勉強したり、修行のような厳しさの必要な律法の守り方をするのではなく、神様の愛によって自分と他人をいたわることが全ての律法の中心であり、守らない人を厳しく裁くばかりの、神様の愛無しの律法主義では疲れてしまうと教えておられます。イエス様は神様の愛を人生に負う生き方は重さを感じない軽やかさがあり、自分と他人を自ずと生かす生き方へと変えられるのだと教えておられるようです。

2025年7月27日

新約聖書の言葉である古代ギリシア語では、同じ町に住む人々の理想的な人間関係について、友情あるいは友愛と訳される「フィリア」で表現しました。彼らにとっての友情観は聖書の「隣人愛」に近い感覚だったのかも知れません。この「フィリア」に「同胞」あるいは「兄弟」という意味の「アデルフォス」を合成した言葉が「フィラデルフィア」、意味は「同胞(兄弟)を愛する(友愛する)者」です。ローマ12:10では「兄弟愛」と訳されています。古代ギリシアでは「ディアドコイ戦争」時代、争いの多い時代に、ギリシア系の支配者たちがこの言葉を町の名前としました。新約聖書では、ヨハネの黙示録3章に「フィラデルフィア」の町に教会があったことが示されています。この「フィラデルフィア」は現在のトルコ西部のアラシェヒルという町になっています。その代わり北米の、ペンシルバニア州にある「フィラデルフィア」が良く知られています。この聖書に由来して、理想的な兄弟愛の都市という意味で、多様な人々の集う町に相応しく名付けられました。

2025年7月20日

旧約聖書のヨナ書では、主人公である預言者ヨナが神様に命じられて、敵国の首都ニネベに神様の裁きの時が迫っているので罪を悔い改めるように語り伝えることになります。ヨナは悔い改めの言葉を伝えることで本当にニネベの人々が回心し、神様が憐みによってニネベの人々を滅びから救ってしまうことが嫌だったから、使命から逃げたのかも知れません。ヨナは敵をも愛し、救おうとされる神様によって、自らもまた救われ、新しい命が与えられます。使命から逃げたヨナが大魚に飲み込まれ、三日目に陸地に吐き出されたことは、憎しみと敵意に生きる人が神様の力によって、愛に生きる新しい命へと変えられたことの象徴です。イエス様は、様々な奇跡を用いて人々を癒し、助けましたが、奇跡は手段の一つでしかなく、神様の救いを示す象徴やしるしは、超自然的な力を経験することではなく、人が新しい命に変えられることそのものであると教えておられます。イエス様の復活の奇跡も、イエス様の復活を通して、信じる人々がすべての人を愛する新しい人生へと変えられ続けていること、苦難の中でも消えない希望を抱いて生きる人へ変えられたことが素晴らしいのです。

2025年7月13日

新約聖書の舞台である地中海世界を支配したローマ帝国では、いくつかの税金がありました。イエス様がお生まれになられたユダヤ王国は、帝国の税金に加えてユダヤ王国特有の10分の1税や神殿税という献金兼宗教税がありました。この2つの税金は、エルサレム神殿の維持管理のため、また貧しい人と神殿に仕える祭司やレビ人たちの生活を支えるために使われたもので、福祉的用途のための税という意味があったようです。しかし、ローマ帝国にユダヤ王国が支配されたことで、税金がローマとユダヤ、二重に支払うことになったので、住民は苦しんだようです。そうした税金についての人々の不満を利用して、イエス様を罠にかけようとした人々がいました。ローマ帝国に税金を払うべきと答えれば、自分たちを苦しめる侵略者かつ、異教徒の支配に対して屈することを勧める裏切り者と言うことが出来ます。もし税金を払わなくて良いと答えれば、ローマ帝国に対して反乱を起こす意思があると見なして、当局に通報することが出来ます。しかしイエス様は宗教と政治、自由と義務、それぞれが必要としているお金はきちんと区別し、それぞれの理由に基づいて支払い、あるいは献げるべきものであることを教えておられるようです。

2025年7月6日

太陽は、多くの生き物にとって欠かせない存在です。しかし、真夏の日差しは時に生き物の命を奪うほどに厳しいものにもなります。聖書ではこうした太陽の熱と光を、人間に対して日々の命を与えて下さる神さまの恵みの象徴とすると同時に、神さまの正義の厳しさ、完全さの輝かしさの象徴ともしています。太陽の強い熱と光が、人を苦しめることもあるように、過ちを犯しうる弱さや罪深さのある、全ての人間は神さまの正義と完全さを知り、心が照らされると、罪の裁きの恐ろしさを感じて苦しみを感じることにもなります。正義と裁きが明示されないと、何が罪なのか解らなくなるので、それ自体は必要なものです。しかし悔い改めへと導かれる人には、夏の日差しが遮られ休む日陰のような場所や、渇きを潤す水のような、赦しと愛が必要になります。17節の「小羊」は神さまへ献げる最高の献げ物であり、自分の命によって人の罪を赦し、新たな命を与える存在です。その「小羊」になぞらえられたイエス様が、命の泉の恵みへと人々を導いて下さると記されています。正義と愛の両方がある世界が、イエス様の教えておられ、そして治めておられる天の国なのだと聖書は教えているようです。

2025年6月29日

イエス様が男だけで数千人もの人々に対して、わずかなはずのパンと魚を分け与えた結果、それを受け取った全ての人々が満腹したという奇跡は、新約聖書の4つの福音書全てに記されています。集った人に食事を分け与えるということは、イエス様が教えて下さった神さまの愛を最もよく示すことが出来ることなのかも知れません。イエス様は食事を分け与えると言うことが、神さまの御心に適うことであることを示すために、神さまの力を用いて奇跡によってパンと魚を人々に与えました。しかし、後のキリスト教会では奇跡の力がなくても、一人一人が神さまから与えられていると信じる日々の糧の中から誰かに分け与えることによって、ますます多くの人々を助けることが出来ることを教え続けてきました。イエス様は人々が、何事も奇跡で解決し、神さま任せにするのではなく、必要なものが神さまの導きによってすでに分け与えられると信じて祈りつつ、イエス様を信じて共に生きる人々が自ら、それぞれの力に応じて分け与える生き方を求めておられます。

2025年6月22日

詩やダジャレは、目的は異なりますが、音が同じ言葉を選んで一つの文章とする言葉の技術の一つです。こうした言葉の技術は、聞き手、読み手に伝えたい内容をより強く印象付ける効果があります。アモス書8章1-2節では、ヘブライ語で夏の果物を「カイツ」、終わりを「ケーツ」と言い、似た音の言葉を重ねています。「ケーツ」は「限界」という意味でも使われる言葉で、神の民が生きる国が、不正や不法に満ちて悔い改めもなく、もはや神さまの御心にかなう社会をつくるという理念が失われ、国としての限界に来ていると警告されています。イスラエルの夏は、乾季の盛りであって、水が不足しがちで苦しい時期でありますが、乾燥に強い果実の収穫の時期ともなります。夏の果実は水分補給のためにも用いられ人々の命を助けました。しかし、果実はきちんと収穫し食べないままにしておけば熟して腐り落ちてしまいます。苦しみの中にも神さまの救いの道は備えられています。しかし悔い改め、救われる機会を逃してしまえば、手遅れになってしまいます。適切な時に果物を収穫するように、悔い改めて救われる恵みを手遅れにしないようにと、アモス書では教えられています。