夏もそろそろ終わりに近づく頃、秋の収穫のため、ジャガイモやニンジン、キャベツなどの種まきの時期でもあるようです。イエス様は、たとえ話やなぞらえを用いて、神さまの恵みを伝えておられますが、種まきと収穫、畑の農作業の様子を、神さまのお働きや天国のなぞらえとして用いておられます。イエス様がなさったメッセージや救いの活動は、全ての人から歓迎されたわけではありませんでした。しばしばイエス様は迫害にあわれ、十字架で死ぬことにもなります。しかしイエス様は、十字架の死を含む、あらゆる困難を種まきと見なされ、救いを伝えるお働きを農作業の困難さになぞらえておられるようです。つまり、その困難と労苦は、多くの人々が救いへと導かれるという豊かな実りによって報われるものです。しかし、育ちきった野菜は、収穫しなければもったいないことになってしまいます。イエス様は、神さまの言葉を受けて心に救いを受け入れた人を、キリスト者としての自覚的な信仰へと招く人を、収穫する働き人になぞらえておられるようです。すでに神さまの畑には沢山の実りがあります。多くの人々が、収穫される野菜のように、イエス様を信じて生きる、喜びの人生へと導かれますように。
アーカイブ
2024年8月18日
「平和を実現する人々」と訳されたギリシア語「エイレーノポイオス」は「平和」を意味する「エイレーネ」と「行う/作る」を意味する「ポイエオー」の合成語です。英語だと「ピースメーカー(Peacemaker)」と訳されることがあります。アメリカ合衆国の西部開拓時代、コルト・シングルアクション・アーミーという拳銃が開発されました。この拳銃は先住民族たちを虐殺し、土地を奪うために用いられ、後に米国陸軍の正式採用装備の一つとなりました。この拳銃の別称を「ピースメーカー」と言います。仲間を守るためとはいえ、争う相手を殺戮し、武器で威嚇しなければ解決出来ない自分たちを恥じた人々がいたのでしょうか。拳銃を「ピースメーカー」と呼んだのは、自分たちに対する皮肉だったのかも知れません。イエス様は、敵に命を奪われてもなお、敵を祝福し、赦しの愛を受けて罪清められ、新しい命へと変えられることを祈り願いました。このイエス様の姿は、後に多くの人々の心を変え、キング牧師やネルソン・マンデラなどの非暴力抵抗運動を生み出しました。イエス様は、弱く虐げられていても、平和を求めて祈りの戦いをする人々を幸いと呼んで下さる方です。
2024年8月11日
日本の夏は、湿度が高く、台風もやってくる水気の多い時期です。しかし、場所によっては雨が少なく、水不足になる地域もあるようです。聖書の舞台となっているパレスチナ地方の夏は雨の降らない乾季となり、水不足になりがちです。多くの人々は井戸水によって生きるために必要な水を得ていました。しかし、雨が降らなくなり地下水が枯渇すると、井戸の水位が減り、涸れ井戸になってしまうこともあります。ヨハネによる福音書4章11節でイエス様は、罪深さと孤独に苦しむ人の心を涸れ井戸に、イエス様を信じて赦しと希望を抱く人の心を、潤いに満ちた井戸になぞらえているようです。ローマの信徒への手紙15章13節では、神さまは地下水脈や水源地のように希望の源であり、水が井戸に満ちるように、神さまは人の心に希望を満たして下さると教えています。「満たす」と訳されたギリシア語「ペリッセウオー」は、「豊富」「溢れる」という意味もあります。神さまは満たされた人だけではなく、周りの人々にも分け与え、潤すことが出来るほどに豊かに溢れ流れる希望の恵みを与え、全ての人を潤して下さる方です。
2024年8月4日
「ベタニア」という村は、エルサレムの近くにあった村だと考えられています。イエス様と弟子たちはエルサレムに用事があって北のガリラヤ地方から来るときは、ベタニア村のラザロの家を拠点の一つとしていたようです。「ベタニア」という村の名前の由来については色々な解釈があるようです。しかし古い時代のキリスト教会ではベタニアは「苦悩の家」あるいは「貧しい者の家」とも呼ばれていたようです。また、マタイ福音書26章6-7節では、新約聖書の時代、社会から隔離されたハンセン病患者であったシモンという人物が、ベタニア村にいたという記述があります。そこでベタニア村は「救貧院」のような大規模な福祉施設の場所だったと考える人もいるようです。ヨハネによる福音書12章1-8節の出来事で、貧しい人々という言葉が出てくるのも、ベタニア村が貧しい人々を助ける働きをする場所だったからなのかも知れません。ナルドの香油という高価なものを、どのようにしてベタニア村の女性が手に入れたのかは記されていません。しかし、もしかすると貧しい者はただ憐れまれ施されるばかりだけではなく、イエス様と共に隣人を愛し、誰かに与える幸いな人生へと招かれているという、神の恵みの象徴的出来事だったのかも知れません。
2024年7月28日
夏の日差しは、紫外線量が多く、長時間浴びると日焼けしてしまいます。日焼けは、皮膚ガンにもなり得るので、紫外線対策のクリームを塗ることが勧められています。しかし、全く紫外線を浴びないと体内でカルシウム吸収を助けるビタミンDを生成することが出来ず、骨がもろくなってしまうとも言われています。冬は極端に日照時間が短くなる北海道では、夏は15分程度、日光浴をしましょう、と勧められることもあるようです。古代社会では現代医学における紫外線の必要性は知られていませんでしたが、太陽の光が人間にとって有益であることについては、経験的に知っていました。旧約聖書のマラキ書4章2節では、太陽が義と癒やしの象徴とされています。新約聖書のヨハネの手紙第一1章7節では、光の中を歩む人は罪から清められる、とされています。罪から清められるということは、人として身体だけではなく、心や魂を含めた全人格が健全な、神さまの御心に適う状態へと回復されるという意味です。適度に日光を浴びつつ、神さまの愛と正義の光をたっぷりと浴びて、健やかな人生を歩んでまいりましょう。
2024年7月21日
詩編23編は、短くも美しい詩の一つです。作者ダビデは、旧約聖書のサムエル記の時代、イスラエル王国を再統一した英雄王です。ダビデは、羊飼いの末息子として生まれ育ち、さまざまな困難を乗り越えて成長し、素晴らしい活躍をしました。ダビデの人生における苦悩は、人間関係でした。ダビデ自身はカリスマ性もあり、大変魅力的な人物でしたが、上司となるサウル王に妬まれて命を狙われ、妻ミカルと親友ヨナタンから遠く離れることとなります。敵国であったペリシテの国の客員将軍となり、裏切りを警戒されながら過ごします。イスラエル王となった後は、子ども達が憎み、争う姿を見なければなりませんでした。また息子アブサロムに国を奪われ、奪い返す戦いの中で息子の命を失うことにもなります。羊飼いのころの経験によって、神さまを羊飼い、自らを一匹の羊になぞらえる23編の詩は、ダビデがまだ若く、未来に希望を抱いた時に作ったものかも知れません。しかし、苦難の中で自らの詩によって、いついかなる時も人生を導いて下さる神さまへの信頼を思い起こし、勇気付けられていたのではないでしょうか。神さまは苦難や罪深さや弱さ、人生の欠けたるあらゆるところを満たして下さる、恵み深き方です。
2024年7月14日
暑い夏の日には、相応しい服装があります。もし真冬の服装をしていたら、健康を損なってしまうでしょう。イエス様を信じて生きる、キリスト者となった人は、人生の新しい季節を迎えます。季節ごとに相応しい服装に着替えるように、キリスト者になった人は、以前の人生から相応しい人生へと変えられていきます。親が幼子のために季節ごとの服装を用意してくれるように、神さまはキリスト者となった人々に相応しい生き方を、「神にかたどって造られた新しい人」すなわちイエス様の十字架の人生と教えを通して備えておられます。17節では「異邦人」という言葉がありますが、これは外国人という意味ではなく、おそらくキリスト者ではない人々、という意味でしょう。この手紙の送り先である教会のあるエフェソ市は、道徳的腐敗が町全体の常識となっていたとも考えられています。しかし、世の中の多くの人たちがしていることだからといって同じ事をするのではなく、キリスト者は神さまに備えられている、清められた新しい人生を歩むことがキリスト者らしい生き方なのだと言われているようです。神さまは、伝統がなくても、新しく清潔で、健全な人生へと招いて下さる方です。
2024年7月7日
出かけようと思ったら、鍵がない、財布がない、と必要なものが焦ってしまったことはあるでしょうか。大事なものが見つからない時には、家の中で散らかっている場所を片付けていくと、見つかる場合があります。イエス様は、一人の罪人が悔い改める時、天使たちは大事な探し物が見つかった時のように喜ぶのだと言っておられます。この場合の天使たち、という表現は、天国全体とか、もちろん天使たちの主である神さまも含まれる表現です。天使たちの中には、すでに天国に召されている人々、という意味もあるかも知れません。一人の人間、しかも罪人という存在は、世界全体からすればほんの小さなものに過ぎませんが、神さまと神さまを信じ仕える存在にとっては、一人一人がとても大事で、見つけようと家中を片付ける手間をかけるに価値のある存在なのです。罪を悔い改めるということは、一人一人が自分自身の決断として行うことです。しかし、荷物に覆われたり、家具の隙間に落ちて闇の中にある銀貨が、探し出そうとする人によって光の中に見いだされるように、神さまの側から人の心と人生に救いの光が当てられる時、人は自ら気がついていなかった心の中にある罪に気付き、悔い改めへと導かれます。神さまは日々、人を悔い改めへと導き、天使たちと共に喜んで天国へと招いて下さる方です。
2024年6月23日
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がありますが、人間は健やかな体でも不健全な心の状態になることもあります。本来この言葉は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」という表現であり、人間の実態はそうではないことを認め、理想として外側だけではなく、内側の健やかさをも願い求めるべきではないか、という問いかけなのだそうです。イエス様もまた、身体的な健康と心の健康状態については区別するべきだと教えておられるようです。イエス様はマタイによる福音書15章18節で人の心を不健康にするのはその人自身の心であること、そして具体的に心の健康・衛生状態が悪化する理由としては悪口など、心から出てくる言葉の問題を指摘しておられます。怒りや悪意が心に起こること自体を止めることは出来ないかも知れません。しかし、隣人愛によって忍耐し、言葉として相手を傷つけないように配慮するとき、その人の心は、健康な胃腸が食べ物を正しく消化するように、自分の思いを消化して清潔さと健康を保っているのかも知れません。胃腸の弱るように心弱る時にお薬を飲むように、心汚す思いの消化を助けてくださるイエス様のお言葉をいただきましょう。
2024年6月16日
イエス様はルカによる福音書15章11-32節で、父の財産を受け取って、それを全て浪費した果てに父の家に帰ってきた息子と、その息子を愛情深く受け入れる父親のたとえ話を通して、神さまの愛を教えておられます。たとえ話の父親は、家を離れた息子の人生が上手くいかないことを予感していたかも知れません。しかし、無理に引き留めませんでした。失敗するかも知れないと分かってはいても、子どもの自由な意思を尊重したのでしょう。父親にとっては自分が受け継ぎ、増やしてきたであろう財産は、彼自身の人生の証だったかも知れません。それが空しく費やされるのだとしても、この父親は息子に財産を渡しました。そして実際全て失った息子が自らを悔いて戻ってきたときに、父親は無条件で愛を示し、受け入れました。神さまは人が過ちうることさえ赦し、自らの弱さや愚かさに気づき、自由な意思で悔い改めて、心清められる機会を与える愛を示して下さる方です。