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2024年10月13日

ルカによる福音書8章41-56節では、二人の「娘」が登場します。一人はヤイロという人物の娘で42節では「12歳くらい」とされています。もう一人が、ヤイロの娘を癒しにいく途中で出会った女性で、43節では「12年このかた出血が止まらず」と紹介されています。この出血は女性特有の病気の一種であったと考えられているようです。文字通りにとれば、この女性は12年間病気で苦しんでいたので成人しており、ある程度の年齢であったことが想像されます。当時、出血の続く病気は「ケガレ」と見なされ、病的感染のみならず、罪深さが感染しないようにと社会から隔離されることがありました。彼女は病気だけでは無く孤独感に苦しんでいたかも知れません。この女性が癒された時、イエス様は「娘よ」と呼びかけています。父なる神さまがこの女性を決して見捨ててはおらず、愛情深い親は、いくつになっても子を慈しむ心を失わないように、神さまはこの女性をご自分の娘と思い慈しんでおられるのだということが、人々の前で宣言されました。神さまは体だけではなく、心と社会性をも癒して下さる愛の神です。

2024年10月6日

「食欲の秋」とか、「天高く馬肥ゆる秋」いう言葉があります。夏の暑さで食欲がなくなっていた人が、秋の涼しさの中で元気を取り戻し、よく食べることが出来るようになる様子を表した言葉なのだそうです。ですから、暴食を勧める言葉ではないのでしょう。小食になり、力を失っていた人を励ますための言葉であり、寒い冬に向けて力を蓄えようという備えの言葉なのかも知れません。食を断って祈りに専念することを断食と言います。ルカ福音書ではイエス様が断食した理由が明確に記されていませんが、空腹の苦しみを自ら体験し、その中でも祈りを献げ続けるお姿は、自らを満たそうとするのではなく、他者の欠けを満たそうとされる十字架に至る隣人愛の生き方の象徴のようでもあります。悪魔はイエス様に対して空腹の苦しみから逃れるために、神さまの奇跡の力を、自分の為に使えば良いと誘惑します。イエス様は食欲そのものを否定しません。しかし、自分を愛するように隣人を愛することが、神さまを信じて愛する人の生き方であるとイエス様は教えておられます。美味しいものを食べる時には、独り占めしたりせず、空腹の人々が満たされるよう、ささやかであっても分け与える心を思い起こしたいものです。

2024年9月29日

人間の健康上、睡眠時間をしっかりととることは大事です。詩編127編2節にあるように、日々の生活のことで心の平安を失った結果、より多くのお金を得ようとして睡眠時間を少なくするような生き方は、心にとっても不健康であり、神さまによって必要なものが満たされると信じる人は、眠ることに罪悪感を持つことなく、神さまが一人一人に備えておられる適切な時間、安らかに眠ることが出来るのだと聖書は教えています。しかし、睡眠時間は、多ければ多いほど良いというものではありません。多すぎればむしろ健康を損なうことにもなるようです。ローマの信徒への手紙13章11節では、魂にも適切な目覚めの時があると教えています。この目覚めもまた、適切な睡眠時間の後に自ずと現れるものです。イエス様の十字架の救いを信じ、父なる神さまを信頼して生きるという新しい命は、その恵みに気がつくための適切な期間を経て、目覚めの時を迎えます。救いの恵みは、平安の後に自ずと現れ、すっきりと目が覚めるような、神さまが一人一人に備えておられる時です。

2024年9月22日

秋分の日は、夏と秋の境目の日であり、日照時間と夜の時間が等しくなる日とされています。しかし、ぴったり同じになるわけではありません。ほぼ同じになるのです。太陽と地球の動きからすれば、ぴったりになるはずなのですが、空気による光の屈折によって、実際はちょっと昼の時間が長くなるようなのです。というわけで、天文学的には同じであるけれども、物理学的には少しばかりずれるのです。聖書では、イエス様を信じて救われた人は、神さま側の理屈では完全に救われているのだけれども、人間側の現実では、なお罪を犯して悔い改めを続けている、完全な救いを目指して生きているのだと教えています。しかし、そのように自分にはまだ至らないところがあると自覚し、ひたむきに神さまを求めて生きる人生こそ、完成の中心点へと向かう、ほぼ完成された、実質完成された救いの只中に生きる人なのではないでしょうか。不完全であることは嘆くべきことではなく、むしろ完全を目指し、近づくことが出来る力の源泉でもあり、なによりそのような人のことをイエス様は、すでに天国に住まいを備えていて下さるのだと聖書は励ましているようです。

2024年9月15日

寒暖の差が大きくなる秋は、体力、免疫力が弱ることがあります。外出した後は手洗い、うがいを心がけたいものです。小さな子どものいる家庭では、子どもに手洗いの習慣を教えるために、始めは親と一緒に手洗いをするでしょう。保育園、幼稚園、小学校でも、衛生習慣を身につけ、自分だけではなく自分の周りの人たちをも、病ませてしまわないようにと願う、心の優しさを身につけます。日本では昔から、悪事を止めて更生しようとすることを、「足を洗う」などと言いますが、新約聖書のヤコブの手紙4章8節では、罪から人が清められ、悪から義へと回心することを「手を清める」と表現しています。この表現は当時の人々が、食事の前や、礼拝の前などに手を洗い、体を清潔にすることを「清める」と表現していたことに由来します。手洗いは、罪を清められ、悪事を止めることの象徴です。同時にこの箇所では、「心を清めなさい」とも言われています。悪の行いを止めるだけではなく、悪意、ねたみ、憎しみなど、悪の原因となっている自らの欲望を心から取り去らないと、また悪事がぶり返してしまうものです。祈りと礼拝という、心を洗い、心をうがいする習慣を身につけましょう。

2024年9月8日

列王記の時代、預言者達は偶像礼拝に対して強く反対しました。理由の一つは、当時のパレスチナ地方の土着宗教は、人間を生け贄として偶像神に献げたり、神殿を売春所としており、倫理観に邪悪な振る舞いを行っていたからです。預言者エリヤは邪悪なバアル宗教に対して祈りと真の神さまの力によって勝利したはずでした。ところが、世の中は変わりませんでした。むしろエリヤは厄介者として権力者から命を狙われ、人里離れた荒れ野へ逃げ出すことになります。神さまは挫折感に苦しみ、死すら望む言葉を発するエリヤを生かし、彼の心を励まします。悩みつつも立ち上がろうとするエリヤは、ある晩、不思議な体験をします。11-12節の表現は、もしかすると文字通り大きな災害が起きたことを意味しているのかも知れません。しかしエリヤは、人々が神の力を感じるはずの巨大な自然の力の中に、真の神さまの存在を感じませんでした。エリヤは全ての災いが終わった後に聞こえた静かな細い声に、自らを用いて人を生かそうとする神さまの存在を感じて立ち上がります。そしてエリヤは全体からすればわずかな、小さな人々を助け、祈るために、活き活きと生きる信仰者として生まれ変わったのでした。

2024年9月1日

童話「王さまの耳はロバの耳」のように、人の心は「秘密だよ」と言われるとなぜだか他の人に言いたくなることがあるようです。マルコによる福音書の特徴の一つに、イエス様がやたらとご自身のなさった奇跡を言い広めないようにと、秘密にしたがって、という様子が記されています。何故秘密にしようとしたのか、その理由は書いてないので、読み手は色々な解釈をしています。イエス様の働きのおもな目的は魂の救いだったので、病気や障害を癒すという奇跡ばかりが期待されるのは目的にそぐわないので、言い伝えることを禁じられたのでしょうか。あるいは奇跡は目の当たりにしないと信じることが困難なので、イエス様の奇跡を言い伝えた人がそのことによって嘘つきよばわりされたり迫害されないように、秘密にするべきだと教えられたのでしょうか。しかしイエス様が秘密と言っても、人々はイエス様の素晴らしさを言い広めました。我慢できなかったのです。開かれたのは話せない人の口だけではなく、喜びの心だったのかも知れません。

2024年8月25日

夏もそろそろ終わりに近づく頃、秋の収穫のため、ジャガイモやニンジン、キャベツなどの種まきの時期でもあるようです。イエス様は、たとえ話やなぞらえを用いて、神さまの恵みを伝えておられますが、種まきと収穫、畑の農作業の様子を、神さまのお働きや天国のなぞらえとして用いておられます。イエス様がなさったメッセージや救いの活動は、全ての人から歓迎されたわけではありませんでした。しばしばイエス様は迫害にあわれ、十字架で死ぬことにもなります。しかしイエス様は、十字架の死を含む、あらゆる困難を種まきと見なされ、救いを伝えるお働きを農作業の困難さになぞらえておられるようです。つまり、その困難と労苦は、多くの人々が救いへと導かれるという豊かな実りによって報われるものです。しかし、育ちきった野菜は、収穫しなければもったいないことになってしまいます。イエス様は、神さまの言葉を受けて心に救いを受け入れた人を、キリスト者としての自覚的な信仰へと招く人を、収穫する働き人になぞらえておられるようです。すでに神さまの畑には沢山の実りがあります。多くの人々が、収穫される野菜のように、イエス様を信じて生きる、喜びの人生へと導かれますように。

2024年8月18日

「平和を実現する人々」と訳されたギリシア語「エイレーノポイオス」は「平和」を意味する「エイレーネ」と「行う/作る」を意味する「ポイエオー」の合成語です。英語だと「ピースメーカー(Peacemaker)」と訳されることがあります。アメリカ合衆国の西部開拓時代、コルト・シングルアクション・アーミーという拳銃が開発されました。この拳銃は先住民族たちを虐殺し、土地を奪うために用いられ、後に米国陸軍の正式採用装備の一つとなりました。この拳銃の別称を「ピースメーカー」と言います。仲間を守るためとはいえ、争う相手を殺戮し、武器で威嚇しなければ解決出来ない自分たちを恥じた人々がいたのでしょうか。拳銃を「ピースメーカー」と呼んだのは、自分たちに対する皮肉だったのかも知れません。イエス様は、敵に命を奪われてもなお、敵を祝福し、赦しの愛を受けて罪清められ、新しい命へと変えられることを祈り願いました。このイエス様の姿は、後に多くの人々の心を変え、キング牧師やネルソン・マンデラなどの非暴力抵抗運動を生み出しました。イエス様は、弱く虐げられていても、平和を求めて祈りの戦いをする人々を幸いと呼んで下さる方です。

2024年8月11日

日本の夏は、湿度が高く、台風もやってくる水気の多い時期です。しかし、場所によっては雨が少なく、水不足になる地域もあるようです。聖書の舞台となっているパレスチナ地方の夏は雨の降らない乾季となり、水不足になりがちです。多くの人々は井戸水によって生きるために必要な水を得ていました。しかし、雨が降らなくなり地下水が枯渇すると、井戸の水位が減り、涸れ井戸になってしまうこともあります。ヨハネによる福音書4章11節でイエス様は、罪深さと孤独に苦しむ人の心を涸れ井戸に、イエス様を信じて赦しと希望を抱く人の心を、潤いに満ちた井戸になぞらえているようです。ローマの信徒への手紙15章13節では、神さまは地下水脈や水源地のように希望の源であり、水が井戸に満ちるように、神さまは人の心に希望を満たして下さると教えています。「満たす」と訳されたギリシア語「ペリッセウオー」は、「豊富」「溢れる」という意味もあります。神さまは満たされた人だけではなく、周りの人々にも分け与え、潤すことが出来るほどに豊かに溢れ流れる希望の恵みを与え、全ての人を潤して下さる方です。