新約聖書の言葉である古代ギリシア語では、同じ町に住む人々の理想的な人間関係について、友情あるいは友愛と訳される「フィリア」で表現しました。彼らにとっての友情観は聖書の「隣人愛」に近い感覚だったのかも知れません。この「フィリア」に「同胞」あるいは「兄弟」という意味の「アデルフォス」を合成した言葉が「フィラデルフィア」、意味は「同胞(兄弟)を愛する(友愛する)者」です。ローマ12:10では「兄弟愛」と訳されています。古代ギリシアでは「ディアドコイ戦争」時代、争いの多い時代に、ギリシア系の支配者たちがこの言葉を町の名前としました。新約聖書では、ヨハネの黙示録3章に「フィラデルフィア」の町に教会があったことが示されています。この「フィラデルフィア」は現在のトルコ西部のアラシェヒルという町になっています。その代わり北米の、ペンシルバニア州にある「フィラデルフィア」が良く知られています。この聖書に由来して、理想的な兄弟愛の都市という意味で、多様な人々の集う町に相応しく名付けられました。
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2025年7月20日
旧約聖書のヨナ書では、主人公である預言者ヨナが神様に命じられて、敵国の首都ニネベに神様の裁きの時が迫っているので罪を悔い改めるように語り伝えることになります。ヨナは悔い改めの言葉を伝えることで本当にニネベの人々が回心し、神様が憐みによってニネベの人々を滅びから救ってしまうことが嫌だったから、使命から逃げたのかも知れません。ヨナは敵をも愛し、救おうとされる神様によって、自らもまた救われ、新しい命が与えられます。使命から逃げたヨナが大魚に飲み込まれ、三日目に陸地に吐き出されたことは、憎しみと敵意に生きる人が神様の力によって、愛に生きる新しい命へと変えられたことの象徴です。イエス様は、様々な奇跡を用いて人々を癒し、助けましたが、奇跡は手段の一つでしかなく、神様の救いを示す象徴やしるしは、超自然的な力を経験することではなく、人が新しい命に変えられることそのものであると教えておられます。イエス様の復活の奇跡も、イエス様の復活を通して、信じる人々がすべての人を愛する新しい人生へと変えられ続けていること、苦難の中でも消えない希望を抱いて生きる人へ変えられたことが素晴らしいのです。
2025年7月13日
新約聖書の舞台である地中海世界を支配したローマ帝国では、いくつかの税金がありました。イエス様がお生まれになられたユダヤ王国は、帝国の税金に加えてユダヤ王国特有の10分の1税や神殿税という献金兼宗教税がありました。この2つの税金は、エルサレム神殿の維持管理のため、また貧しい人と神殿に仕える祭司やレビ人たちの生活を支えるために使われたもので、福祉的用途のための税という意味があったようです。しかし、ローマ帝国にユダヤ王国が支配されたことで、税金がローマとユダヤ、二重に支払うことになったので、住民は苦しんだようです。そうした税金についての人々の不満を利用して、イエス様を罠にかけようとした人々がいました。ローマ帝国に税金を払うべきと答えれば、自分たちを苦しめる侵略者かつ、異教徒の支配に対して屈することを勧める裏切り者と言うことが出来ます。もし税金を払わなくて良いと答えれば、ローマ帝国に対して反乱を起こす意思があると見なして、当局に通報することが出来ます。しかしイエス様は宗教と政治、自由と義務、それぞれが必要としているお金はきちんと区別し、それぞれの理由に基づいて支払い、あるいは献げるべきものであることを教えておられるようです。
2025年7月6日
太陽は、多くの生き物にとって欠かせない存在です。しかし、真夏の日差しは時に生き物の命を奪うほどに厳しいものにもなります。聖書ではこうした太陽の熱と光を、人間に対して日々の命を与えて下さる神さまの恵みの象徴とすると同時に、神さまの正義の厳しさ、完全さの輝かしさの象徴ともしています。太陽の強い熱と光が、人を苦しめることもあるように、過ちを犯しうる弱さや罪深さのある、全ての人間は神さまの正義と完全さを知り、心が照らされると、罪の裁きの恐ろしさを感じて苦しみを感じることにもなります。正義と裁きが明示されないと、何が罪なのか解らなくなるので、それ自体は必要なものです。しかし悔い改めへと導かれる人には、夏の日差しが遮られ休む日陰のような場所や、渇きを潤す水のような、赦しと愛が必要になります。17節の「小羊」は神さまへ献げる最高の献げ物であり、自分の命によって人の罪を赦し、新たな命を与える存在です。その「小羊」になぞらえられたイエス様が、命の泉の恵みへと人々を導いて下さると記されています。正義と愛の両方がある世界が、イエス様の教えておられ、そして治めておられる天の国なのだと聖書は教えているようです。
2025年6月29日
イエス様が男だけで数千人もの人々に対して、わずかなはずのパンと魚を分け与えた結果、それを受け取った全ての人々が満腹したという奇跡は、新約聖書の4つの福音書全てに記されています。集った人に食事を分け与えるということは、イエス様が教えて下さった神さまの愛を最もよく示すことが出来ることなのかも知れません。イエス様は食事を分け与えると言うことが、神さまの御心に適うことであることを示すために、神さまの力を用いて奇跡によってパンと魚を人々に与えました。しかし、後のキリスト教会では奇跡の力がなくても、一人一人が神さまから与えられていると信じる日々の糧の中から誰かに分け与えることによって、ますます多くの人々を助けることが出来ることを教え続けてきました。イエス様は人々が、何事も奇跡で解決し、神さま任せにするのではなく、必要なものが神さまの導きによってすでに分け与えられると信じて祈りつつ、イエス様を信じて共に生きる人々が自ら、それぞれの力に応じて分け与える生き方を求めておられます。
2025年6月22日
詩やダジャレは、目的は異なりますが、音が同じ言葉を選んで一つの文章とする言葉の技術の一つです。こうした言葉の技術は、聞き手、読み手に伝えたい内容をより強く印象付ける効果があります。アモス書8章1-2節では、ヘブライ語で夏の果物を「カイツ」、終わりを「ケーツ」と言い、似た音の言葉を重ねています。「ケーツ」は「限界」という意味でも使われる言葉で、神の民が生きる国が、不正や不法に満ちて悔い改めもなく、もはや神さまの御心にかなう社会をつくるという理念が失われ、国としての限界に来ていると警告されています。イスラエルの夏は、乾季の盛りであって、水が不足しがちで苦しい時期でありますが、乾燥に強い果実の収穫の時期ともなります。夏の果実は水分補給のためにも用いられ人々の命を助けました。しかし、果実はきちんと収穫し食べないままにしておけば熟して腐り落ちてしまいます。苦しみの中にも神さまの救いの道は備えられています。しかし悔い改め、救われる機会を逃してしまえば、手遅れになってしまいます。適切な時に果物を収穫するように、悔い改めて救われる恵みを手遅れにしないようにと、アモス書では教えられています。
2025年6月15日
ペンテコステの次の週に当たる本日は、キリスト教会の伝統的な暦だと「三位一体」主日と呼ばれています。8世紀ごろから西ヨーロッパの教会で始まり、14世紀に時のローマ教皇によって正式に定められました。「三位一体」という考え方は、神様はお一人だけれども、父なる神、子なる神であるイエス様、そして聖霊として働かれる神という三つの個別の人格として、この世界に関わっておられる、という伝統的な信仰です。この三位一体の考え方が教会の信仰の基礎となった理由には、長い間キリスト教会が、それぞれの礼拝や信仰生活の中で父、子、聖霊の神について、それぞれ独自に強調しており、例えば、うちの教会では父なる神様ばかりを信じ、あちらの教会では聖霊の神様ばかりを強調していて、一緒に集まると同じ神様を信じているのかどうか疑わしい、とケンカする理由になっていたからです。そこで、父、子、聖霊はみな同じ神様だから、仲良くしましょう、ということにしたのです。つまり三位一体の教えは仲良しの教えなのです。
2025年6月1日
イエス様の癒やしの奇跡には、病気や障害それ自体に対する癒やしという意味と、内面性や社会性など目に見えない部分の癒しという意味が重ねられています。ルカによる福音書18章35–43節は目の見えない人の癒しの奇跡が記されています。しかし、この前の34節では弟子たちがイエス様のお言葉を理解出来なかった、という言葉で終わっています。心の目が見えておらず、神さまの言葉に心が開いていない状態だったのです。この時の弟子たちはイエス様をユダヤの社会的、政治的改革者として求めていたのかも知れません。自分の欲望を満たすための都合の良い救い主を求めている時、人の心の目は見えなくなっているのでしょう。しかし目の見えない人はイエス様を神さまの子ども、全ての人の救い主だと信じてひたむきに癒しを求めました。この人の目が癒され開かれた姿を通して、弟子たちの閉じられていた心の目も開かれ、自分の欲望を満たすためではなく、魂に救いを与えて下さる神さまのお働きに目が開かれていったのではないでしょうか。
2025年5月25日
聖書の舞台であるパレスチナ地方は、アフリカ大陸から西アジアを通り、ヨーロッパ方面へと抜ける交通の要衝であり、非常に多くの渡り鳥たちを見ることが出来る、野鳥観察の盛んな地域として知られています。マタイによる福音書10章29節では、「スズメ」という小さく、どこにでもいる小鳥が人間の姿になぞらえられています。しかし6章26節でイエス様が人間を空の鳥になぞらえておられる時には、人々の上では色々な種類の渡り鳥たちが空を飛んでいたかも知れません。鳥たちにもそれぞれの生活があり、人間からすれば無計画に思えても、経験と本能によって住まいを定め、日々の糧を得るための計画性を持っています。しかし、自然界の厳しさの中で日々の命があるのは、鳥たちの自助努力を超えた神さまのご配慮と養いがあるからであり、まして子としてくださる天の父なる神さまは、人間を慈しみ見捨てることはない、だから日々の生活に思い煩うのを止めて、必要は神さまが満たして下さると信頼して、日々の生活に努めるようにとイエス様は教えておられるようです。
2025年5月18日
「エルサレム」は、聖書の時代から現在のイスラエルに至るまで首都となっています。聖書の舞台であるパレスチナ地方の都市は、都市全体を城壁で囲い要塞化することがありました。エルサレムはパレスチナ地方の中心部に位置しており、山城でもありました。名前の由来については諸説在りますが、よく知られてる説としては、「エル=神さま」「サレム(シャローム)=平和」、つまり神の平和という意味です。エルサレムは防衛のための拠点でもあり、歴史上、大国に侵略されたときには、籠城戦で数年持ちこたえることもありました。この堅固な要塞にとって、もっとも恐るべき事態は外敵よりも、内部の人間関係の争いだったかも知れません。権力者達が互いに争い、人々がその争いに加担したり巻き込まれたりして弱まれば、城壁が固くても滅びを招いてしまいます。詩編122編の言葉は、現実の城壁と外敵に対する平和だけではなく、むしろいかなる苦難の中にも、神さまの支えと守りを信じる心が、人を助ける確かな城壁のようであり、外からだけではなく人の心の内側が自己中心的な罪から争いを起こさず、神さまによって心清められた平和があるように、と言う祈りとなっています。