ペンテコステの次の週に当たる本日は、キリスト教会の伝統的な暦だと「三位一体」主日と呼ばれています。8世紀ごろから西ヨーロッパの教会で始まり、14世紀に時のローマ教皇によって正式に定められました。「三位一体」という考え方は、神様はお一人だけれども、父なる神、子なる神であるイエス様、そして聖霊として働かれる神という三つの個別の人格として、この世界に関わっておられる、という伝統的な信仰です。この三位一体の考え方が教会の信仰の基礎となった理由には、長い間キリスト教会が、それぞれの礼拝や信仰生活の中で父、子、聖霊の神について、それぞれ独自に強調しており、例えば、うちの教会では父なる神様ばかりを信じ、あちらの教会では聖霊の神様ばかりを強調していて、一緒に集まると同じ神様を信じているのかどうか疑わしい、とケンカする理由になっていたからです。そこで、父、子、聖霊はみな同じ神様だから、仲良くしましょう、ということにしたのです。つまり三位一体の教えは仲良しの教えなのです。
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2025年6月1日
イエス様の癒やしの奇跡には、病気や障害それ自体に対する癒やしという意味と、内面性や社会性など目に見えない部分の癒しという意味が重ねられています。ルカによる福音書18章35–43節は目の見えない人の癒しの奇跡が記されています。しかし、この前の34節では弟子たちがイエス様のお言葉を理解出来なかった、という言葉で終わっています。心の目が見えておらず、神さまの言葉に心が開いていない状態だったのです。この時の弟子たちはイエス様をユダヤの社会的、政治的改革者として求めていたのかも知れません。自分の欲望を満たすための都合の良い救い主を求めている時、人の心の目は見えなくなっているのでしょう。しかし目の見えない人はイエス様を神さまの子ども、全ての人の救い主だと信じてひたむきに癒しを求めました。この人の目が癒され開かれた姿を通して、弟子たちの閉じられていた心の目も開かれ、自分の欲望を満たすためではなく、魂に救いを与えて下さる神さまのお働きに目が開かれていったのではないでしょうか。
2025年5月25日
聖書の舞台であるパレスチナ地方は、アフリカ大陸から西アジアを通り、ヨーロッパ方面へと抜ける交通の要衝であり、非常に多くの渡り鳥たちを見ることが出来る、野鳥観察の盛んな地域として知られています。マタイによる福音書10章29節では、「スズメ」という小さく、どこにでもいる小鳥が人間の姿になぞらえられています。しかし6章26節でイエス様が人間を空の鳥になぞらえておられる時には、人々の上では色々な種類の渡り鳥たちが空を飛んでいたかも知れません。鳥たちにもそれぞれの生活があり、人間からすれば無計画に思えても、経験と本能によって住まいを定め、日々の糧を得るための計画性を持っています。しかし、自然界の厳しさの中で日々の命があるのは、鳥たちの自助努力を超えた神さまのご配慮と養いがあるからであり、まして子としてくださる天の父なる神さまは、人間を慈しみ見捨てることはない、だから日々の生活に思い煩うのを止めて、必要は神さまが満たして下さると信頼して、日々の生活に努めるようにとイエス様は教えておられるようです。
2025年5月18日
「エルサレム」は、聖書の時代から現在のイスラエルに至るまで首都となっています。聖書の舞台であるパレスチナ地方の都市は、都市全体を城壁で囲い要塞化することがありました。エルサレムはパレスチナ地方の中心部に位置しており、山城でもありました。名前の由来については諸説在りますが、よく知られてる説としては、「エル=神さま」「サレム(シャローム)=平和」、つまり神の平和という意味です。エルサレムは防衛のための拠点でもあり、歴史上、大国に侵略されたときには、籠城戦で数年持ちこたえることもありました。この堅固な要塞にとって、もっとも恐るべき事態は外敵よりも、内部の人間関係の争いだったかも知れません。権力者達が互いに争い、人々がその争いに加担したり巻き込まれたりして弱まれば、城壁が固くても滅びを招いてしまいます。詩編122編の言葉は、現実の城壁と外敵に対する平和だけではなく、むしろいかなる苦難の中にも、神さまの支えと守りを信じる心が、人を助ける確かな城壁のようであり、外からだけではなく人の心の内側が自己中心的な罪から争いを起こさず、神さまによって心清められた平和があるように、と言う祈りとなっています。
2025年5月11日
本日は母の日となっています。母の日は、もともと米国のキリスト者である一人のご婦人が、召天されたお母様を偲んで行った記念礼拝が、後に米国民全体にとって、それぞれのお母様に感謝し、ねぎらう日として祝日と定められていきました。現代人にとっては、母親となり「家庭」の働きに仕えるということは、しばしば専業主婦となり、家庭に縛られることという否定的な側面から語られることもあります。しかし、新しい命を産み育てるという働きは、それ自体は喜ばしいことであり、そのために夫婦が協力し、良き家族として、人間として成長していくことは、必ずしも母親が専業主婦であらねば出来ない事ではありません。さまざまな形で子どもを育て、母親として、人間として成長する人がおられることでしょう。しかし聖書は、どのような親であれ、新しい命は自分自身が造りだしたのではなく、むしろ神さまから授かったものであり、預かっている存在であるという謙遜さが必要であると教えているようです。箴言14章1節の直訳は、「家を建てる」です。しっかりとした土台なくしてしっかりとした家は建ちません。イエス様の示された自らを献げる神さまの愛が土台となるとき、母親は優れた大工のように良き家庭、良き家を建てるものとなるのだと、聖書は教えているようです。
2025年5月4日
この箇所で「考えなさい」と訳されたギリシア語「ロギゾマイ」は「論理」を意味する「ロゴス」の変化形の一つで、「思う」や「感じる」のような感情、感覚的な思考とは異なり、「計上する」や「評価する」のような理性、論理的な思考を意味します。つまり、イエス様の救いに与り、神さまを信じて生きるということはすでに、十字架の出来事を通してなされていると信じつつ、自分自身が救われた者として相応しく罪から離れ、清められた人として何が出来ており、何が出来ていないのかをしっかり考えることが大事だと教えられているようです。1-12節では、キリストと共に、一体的に、という言葉が繰り返されています。キリストと共にいる人は、もはや罪が罪と解らなかった時や、罪に支配されていた時のように罪を犯し続けることが出来ず、悔い改めへと導かれます。また一人で孤独に考えるのではなく、独善に陥らないように、罪人を友と呼び、清めて下さるイエス様のお言葉に聞き、神さまのお導きによって得られた信仰の仲間と共に考え、共に成長することが出来るのだと、聖書は私たちを励ましているようです。
2025年4月27日
旧約聖書の創世記1章27節によれば、人間は神さまに似た姿に形作られています。とはいえ、これは見た目のことではなく、目には見えない性質的なものだと考えられています。また「似ている」という表現は、まったく同じものという意味では無く、性質を反映している、あるいは極めて近い形で受け継いでいるという意味になります。それは子どもが親の遺伝子を受け継ぎ、外見だけでは無く内面性において似た部分があることや、あるいは血のつながりが無くても、親しい師弟関係において思想や技術が受け継がれていくことにもなぞらえられるかも知れません。新約聖書のコロサイの信徒への手紙3章10節では、復活されたイエス様を創造主なる神さまと同一の存在と見なしています。ここでは、創造主なる神さまがご自身が自ら復活されて新しくなるように、日々新しくなり続ける方であり、人はこの神さまの似姿であるが故に、イエス様の復活を信じる信仰を通して、思い込みから自由になり、新しいことに気付き、柔軟に受け入れ変えられ続けることが出来る神さまの性質を受け継ぐことが出来る、と教えられているようです。
2025年4月20日
17世紀イギリスの詩人、ジョージ・ハーバートが書いた「復活祭の翼(”Easter Wings”)」という詩があります。固い殻からひな鳥が生まれるタマゴは、死を打ち破りよみがえられたイエスさまの復活の象徴とされています。ハーバートの詩の翼はこのイースターのタマゴから生まれた鳥の翼なのでしょう。詩の第一段落、中央部分の「With thee(あなたと共に)」という言葉を境として、後半は鳥が翼を広げて飛ぶように、罪と苦難の只中から高く飛ぶことが出来ると詠われています。共にいて下さる「あなた」はイエスさまのことです。ハーバート自身は、幼い頃から病気がちで、39歳の時に結核にかかり地上の命を終えています。より高く飛ぶ力を与えられた翼は、豊かな生活や、健康な身体を得たいというこの世の望みではなく、神さまから与えられた新しい命に復活するという希望の象徴なのでしょう。この希望があればこそ、日々死を近く感じる苦難の中でも、詩を書き続ける力を得たのでしょう。イエスさまの復活の命、イースターを通して繰り返し羽ばたく希望の翼が、苦難の中にいる全ての人を力強く、高く飛び立たせて下さいますように。
2025年4月13日
ギリシア語で「愛」を意味する言葉は、その内容に応じて異なる単語が使われます。新約聖書では神さまの示された愛は「アガペー」という単語が使われています。「アガペー」は見返りを求めず与えようとする愛です。この愛は感情的な愛である性愛「エロース」や友愛「フィリア」、家族愛「ストルゲー」と異なり、意思による愛です。相手が好きかどうかではなく、愛そうとする愛です。そこでイエス様は、イエス様を信じて従う人々にとって、この愛によって愛し合うということはイエス様の与える新しい「掟」であると言っておられます。十字架でご自身の命すら与えてくださった愛、敵すらも赦して救おうとする愛と同じ愛によって愛し合うということは、いつかかなえればよいものではなく、キリスト者として生きようとする人にとって、そうしようと意思を持って実行する「掟」なのです。
2025年4月6日
イエス様はたとえ話やなぞらえを使って、多くの人々に神さまのことを伝えました。その理由としては、①多くの人々が親しみやすい身近なものを用いて語ることで、耳を傾け、理解しやすいように配慮された、②マタイ13章13-15節にあるように、話を聞くときに神さまのことを聞きたいという心が開かれているかどうかによって、意味が分かるようにされた、③安易に答えを聞いて満足させるのではなく、自分自身で神さまの言葉を考えさせ、一人一人の人生にとってどのような意味があるのかを考えさせるため、という理由があったのでしょう。イエス様はたとえ話を使わず、直接的に罪や神の恵みを語ることもあります。しかしそればかりでは、心は開かれている人々の心に十分届かず、心を閉ざして自己義認をしている人、自らの罪深さに気付こうとしない人たちが他人事のように話を聞くだけで無意味となってしまうでしょう。神さまが私に何を語りかけておられるのだろうかと、心開いて期待する、聞く耳のある者となれますように。