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2025年5月18日

「エルサレム」は、聖書の時代から現在のイスラエルに至るまで首都となっています。聖書の舞台であるパレスチナ地方の都市は、都市全体を城壁で囲い要塞化することがありました。エルサレムはパレスチナ地方の中心部に位置しており、山城でもありました。名前の由来については諸説在りますが、よく知られてる説としては、「エル=神さま」「サレム(シャローム)=平和」、つまり神の平和という意味です。エルサレムは防衛のための拠点でもあり、歴史上、大国に侵略されたときには、籠城戦で数年持ちこたえることもありました。この堅固な要塞にとって、もっとも恐るべき事態は外敵よりも、内部の人間関係の争いだったかも知れません。権力者達が互いに争い、人々がその争いに加担したり巻き込まれたりして弱まれば、城壁が固くても滅びを招いてしまいます。詩編122編の言葉は、現実の城壁と外敵に対する平和だけではなく、むしろいかなる苦難の中にも、神さまの支えと守りを信じる心が、人を助ける確かな城壁のようであり、外からだけではなく人の心の内側が自己中心的な罪から争いを起こさず、神さまによって心清められた平和があるように、と言う祈りとなっています。

2025年5月11日

本日は母の日となっています。母の日は、もともと米国のキリスト者である一人のご婦人が、召天されたお母様を偲んで行った記念礼拝が、後に米国民全体にとって、それぞれのお母様に感謝し、ねぎらう日として祝日と定められていきました。現代人にとっては、母親となり「家庭」の働きに仕えるということは、しばしば専業主婦となり、家庭に縛られることという否定的な側面から語られることもあります。しかし、新しい命を産み育てるという働きは、それ自体は喜ばしいことであり、そのために夫婦が協力し、良き家族として、人間として成長していくことは、必ずしも母親が専業主婦であらねば出来ない事ではありません。さまざまな形で子どもを育て、母親として、人間として成長する人がおられることでしょう。しかし聖書は、どのような親であれ、新しい命は自分自身が造りだしたのではなく、むしろ神さまから授かったものであり、預かっている存在であるという謙遜さが必要であると教えているようです。箴言14章1節の直訳は、「家を建てる」です。しっかりとした土台なくしてしっかりとした家は建ちません。イエス様の示された自らを献げる神さまの愛が土台となるとき、母親は優れた大工のように良き家庭、良き家を建てるものとなるのだと、聖書は教えているようです。

2025年5月4日

この箇所で「考えなさい」と訳されたギリシア語「ロギゾマイ」は「論理」を意味する「ロゴス」の変化形の一つで、「思う」や「感じる」のような感情、感覚的な思考とは異なり、「計上する」や「評価する」のような理性、論理的な思考を意味します。つまり、イエス様の救いに与り、神さまを信じて生きるということはすでに、十字架の出来事を通してなされていると信じつつ、自分自身が救われた者として相応しく罪から離れ、清められた人として何が出来ており、何が出来ていないのかをしっかり考えることが大事だと教えられているようです。1-12節では、キリストと共に、一体的に、という言葉が繰り返されています。キリストと共にいる人は、もはや罪が罪と解らなかった時や、罪に支配されていた時のように罪を犯し続けることが出来ず、悔い改めへと導かれます。また一人で孤独に考えるのではなく、独善に陥らないように、罪人を友と呼び、清めて下さるイエス様のお言葉に聞き、神さまのお導きによって得られた信仰の仲間と共に考え、共に成長することが出来るのだと、聖書は私たちを励ましているようです。

2025年4月27日

旧約聖書の創世記1章27節によれば、人間は神さまに似た姿に形作られています。とはいえ、これは見た目のことではなく、目には見えない性質的なものだと考えられています。また「似ている」という表現は、まったく同じものという意味では無く、性質を反映している、あるいは極めて近い形で受け継いでいるという意味になります。それは子どもが親の遺伝子を受け継ぎ、外見だけでは無く内面性において似た部分があることや、あるいは血のつながりが無くても、親しい師弟関係において思想や技術が受け継がれていくことにもなぞらえられるかも知れません。新約聖書のコロサイの信徒への手紙3章10節では、復活されたイエス様を創造主なる神さまと同一の存在と見なしています。ここでは、創造主なる神さまがご自身が自ら復活されて新しくなるように、日々新しくなり続ける方であり、人はこの神さまの似姿であるが故に、イエス様の復活を信じる信仰を通して、思い込みから自由になり、新しいことに気付き、柔軟に受け入れ変えられ続けることが出来る神さまの性質を受け継ぐことが出来る、と教えられているようです。

2025年4月20日

17世紀イギリスの詩人、ジョージ・ハーバートが書いた「復活祭の翼(”Easter Wings”)」という詩があります。固い殻からひな鳥が生まれるタマゴは、死を打ち破りよみがえられたイエスさまの復活の象徴とされています。ハーバートの詩の翼はこのイースターのタマゴから生まれた鳥の翼なのでしょう。詩の第一段落、中央部分の「With thee(あなたと共に)」という言葉を境として、後半は鳥が翼を広げて飛ぶように、罪と苦難の只中から高く飛ぶことが出来ると詠われています。共にいて下さる「あなた」はイエスさまのことです。ハーバート自身は、幼い頃から病気がちで、39歳の時に結核にかかり地上の命を終えています。より高く飛ぶ力を与えられた翼は、豊かな生活や、健康な身体を得たいというこの世の望みではなく、神さまから与えられた新しい命に復活するという希望の象徴なのでしょう。この希望があればこそ、日々死を近く感じる苦難の中でも、詩を書き続ける力を得たのでしょう。イエスさまの復活の命、イースターを通して繰り返し羽ばたく希望の翼が、苦難の中にいる全ての人を力強く、高く飛び立たせて下さいますように。

2025年4月13日

ギリシア語で「愛」を意味する言葉は、その内容に応じて異なる単語が使われます。新約聖書では神さまの示された愛は「アガペー」という単語が使われています。「アガペー」は見返りを求めず与えようとする愛です。この愛は感情的な愛である性愛「エロース」や友愛「フィリア」、家族愛「ストルゲー」と異なり、意思による愛です。相手が好きかどうかではなく、愛そうとする愛です。そこでイエス様は、イエス様を信じて従う人々にとって、この愛によって愛し合うということはイエス様の与える新しい「掟」であると言っておられます。十字架でご自身の命すら与えてくださった愛、敵すらも赦して救おうとする愛と同じ愛によって愛し合うということは、いつかかなえればよいものではなく、キリスト者として生きようとする人にとって、そうしようと意思を持って実行する「掟」なのです。

2025年4月6日

イエス様はたとえ話やなぞらえを使って、多くの人々に神さまのことを伝えました。その理由としては、①多くの人々が親しみやすい身近なものを用いて語ることで、耳を傾け、理解しやすいように配慮された、②マタイ13章13-15節にあるように、話を聞くときに神さまのことを聞きたいという心が開かれているかどうかによって、意味が分かるようにされた、③安易に答えを聞いて満足させるのではなく、自分自身で神さまの言葉を考えさせ、一人一人の人生にとってどのような意味があるのかを考えさせるため、という理由があったのでしょう。イエス様はたとえ話を使わず、直接的に罪や神の恵みを語ることもあります。しかしそればかりでは、心は開かれている人々の心に十分届かず、心を閉ざして自己義認をしている人、自らの罪深さに気付こうとしない人たちが他人事のように話を聞くだけで無意味となってしまうでしょう。神さまが私に何を語りかけておられるのだろうかと、心開いて期待する、聞く耳のある者となれますように。

2025年3月30日

町中で見かける黒背景に黄色と白の字で書かれた聖書の言葉、あるいはキリスト教的すすめが書かれた看板があります。この看板の一つに「神と和解せよ」と書かれたものがあります。キリスト教信仰に親しんでいる人であれば解りますが、そうではない方からすると、何のことだろう、と不思議に思う言葉です。この看板の文字が風雨で削れて「ネコと和解せよ」と読めるようになった看板があって、SNSで一時面白がられた時期がありました。野良猫や外飼いの猫に対して、フンの始末とか、厳しい意見が書かれた場所に張られている場合は、なおのこと面白く感じられます。日本や東アジアにおける「和解」という表現では、法律や戦争などの争いを止め、これ以上「争わない」という状態を意味する言葉として用いられてきました。しかし、新約聖書において「和解」と訳されたギリシア語「カタッラゲー」は、変化させて関係性を回復させる、という意味です。無関心ゆえに争いがないという和解では無く、対立から友好へと変化し回復する和解です。「ネコ」ではなく「神」と和解させていただいたということは、疎遠になっていた親子が仲直りし、家族の愛が再び満たされるような関係性へと変えられたということです。その愛の関係があるから、人の罪がなお繰り返されても神さまは見捨てること無く、愛によって忍耐し、必ず救いへと至らせて下さるのだと、聖書は教えています。

2025年3月23日

古代社会において血液は、命の象徴とされていました。東アジア、ヨーロッパ、アフリカでは、指や腕を切って血を出して、約束や誓いを交わすもの同士が混ぜ合わせたり、飲んだり、あるいは動物のいけにえを献げて血を流すことで通常の約束よりも重い、必ず守らなければならない契約を結ぶときの儀式として行っていたようです。聖書の中でも、神様への感謝や悔い改めの祈りを献げるときに、動物のいけにえを献げ、その血を礼拝所や祭壇に注ぐという儀式がありました。レビ記17章では血は命そのものであり、罪人の命を赦す象徴として動物犠牲の血を流すことが定められています。このような儀式に参加した人々は、過ちを犯した自分の代わりに命そのものである血を流して死ぬ動物の姿を通して、自らの罪深さが破滅に向かう深刻さを持っていることを思い起こし、再び同じ過ちを繰り返すまいとする悔い改めの思いが一層強まる効果があったかも知れません。このような身代わりの死と命である血を流すことによって罪清められ、赦しを得るという信仰は新約聖書の時代に、イエス様の十字架に重ね合わせられるようになりました。ヘブライ書9章では、この十字架のイエス様の血は、十字架を思い起こす人に心理的に悔い改めの思いを起こさせるだけではなく、命をかけた救いの契約のための血でもあったと教えています。人が罪へ無自覚さであり、無知であったとしてもなお、イエス様の血の約束によって、救いの恵みは有効であり、神様は血盟によって、人を罪から清めるために導き続けてくださるのです。

2025年3月16日

3月の大阪では、米の苗の育成が始まり、畑おこしなど田植えの準備がされているようです。聖書の世界パレスチナ地方では、3月終わりから4月前半あたりまでが、雨季の最後の時期であり、麦類の収穫の季節となります。イエス様の十字架の出来事はちょうど春の収穫祭でもある過ぎ越しの祭りのころに起きました。そしてイエス様は、十字架で死ぬご自分のお姿を、種まきされた一粒の麦になぞらえておられます。麦は、種まきされて麦粒ではなく生きた麦として成長し、豊かな実を結びます。イエス様は十字架の死によって多くの人々の罪を清め、豊かな救いの道を開いてくださいました。このイエス様のお言葉は、ご自身の十字架の死と復活の恵みについてだけではなく、イエス様を信じて従う人々に対して、十字架的な生き方をする勧めともなっています。自らの命を惜しむということは、ただ生存することを望むという意味だけではなく、問題が起きているにも関わらず今のままで何も変わりたくないと願うことや、自己中心的な幸せを求め続ける生き方をも意味しています。しかしイエス様がお示しくださったように、自らの命を自らの意思で神様の御心のままに用いられることを望んで委ねる時、豊かに用いられ、自ら大きく成長させていただき、自らのみならず多くの人々にも命を与える人生の豊かな実を結ぶことが出来るとイエス様は教えておられるようです。