新約聖書の舞台であるローマ帝国では、大変立派な舗装道路が作られており、その一部は現在でもつかわれています。しっかりと整備された道は、歩きやすくより早く移動することが出来ます。しかし、どれだけ立派な道であろうとも、目的地へ向かうのではない道をいくら進んでも、目的地に着くことはできません。現代人はスマートフォンの地図機能を使って、あちこちに行くことが出来ますが、もしそうしたなんらかの案内がなければ、誰も初めて行く場所に向かって正しく進むことはできないでしょう。聖書では道を人生になぞらえています。人生は道が枝分かれして、あちこちに伸びているように、様々な決断と選択によって方向が変わるものです。神様を信じて生きるという決断をして、天国を目指して日々清められて人生の道を進んでいるつもりでも、途中でいろいろな誘惑に出会って、本来の道を外れてしまうこともあるでしょう。迷子を見かけたら、目的地に行くための手助けをするのが親切心であり、イエス様の教えておられる隣人愛の表れでしょう。それは人生という道も同じで、罪を犯したり、誘惑を受けてふらふらと天国への道から外れてしまった人がいたら、「あんたの行く道はこっちやで」と声をかけ、時には優しく肩をどついて?方向転換させてやりなさい、と聖書は教えているようです。
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2025年1月5日
昔から「一年の計は元旦にあり」と言います。ことわざを知る辞典によれば「一年のことは年の初めの元日に計画を立てて行うべきである。物事は初めが大事、しかもしっかりした計画のもと着実に行えということ。」と解説されています。もととなっている中国のことわざでは、1日の計画は「朝」に、1年の計画は「春」に行うべきである、という表現になっています。おそらく春の種まき、農業計画が念頭にある表現なのでしょう。エレミヤ書29章11節では、神さまもまた計画を立てて実行される方として紹介されています。エレミヤの時代、神の民の国は滅ぼされ、人々は遠いバビロンで捕囚の民とされます。しかし神さまは内乱や戦争によって対立するのではなく、7節では捕らえた人々と捕らえられている町に、敵に平和があるように祈れと諭しておられます。この平和の計画は、後にイエス様の、十字架の赦しの愛によって明らかになり、現れていきます。神さまの平和の計画は、私たちが思うよりもっと早く、始めから計画されており、今もなお、イエス様を信じる人々の心に蒔かれた御言葉の種と共に成長しているのです。
2024年12月29日
フィリピの信徒への手紙の著者であるパウロは、大変立派なキリスト者として知られています。しかし、彼ほどの人物であっても、自分はまだまだ完全な者には遠い、と謙遜しています。この謙遜さは心ではおごり高ぶっているようなうわべだけのものではなく、本心からまだまだだと言っています。パウロが追い求め続け、謙遜にならざるを得ないのは、復活の恵みに与る、ということについてでした。パウロはイエス様を信じる信仰によってすでに自分が罪から清められ、新しい命、新しい人生が与えられているという意味での復活の恵みを、すでにいただいていると確信していました。しかし、肉体を伴う復活という神秘はまだ経験しておらず、どのような形でなされるのか、はっきり解ってはいません。だからまだ自分は復活の恵みについては確信していても、完全に捕らえ切れてはいない、自分は死ぬまで信仰の探求者なのだと言っているのでしょう。パウロがこのように自らの信仰理解における不完全性を告白するのは、信仰の友らが、完全な者になったのだと思い込む高慢に陥らず、共に謙遜に新しい命を追い求め続けて欲しいと願っていたからでしょう。自分の信仰歴を誇り、高慢に陥らず、死ぬまで新しい命を追い求める人こそ、復活の恵みの只中に生きているのです。
2024年12月22日
ルカによる福音書2章では、イエス様がベツレヘムで生まれることになった背景に、当時ユダヤ王国を支配していたローマ帝国の政治的事情があったと記しています。「住民登録」は今で言う国勢調査であり、税金と兵役のための調査でした。イエス様の父親となったヨセフの本籍地がベツレヘムだったからでしょうか、住まいのあるナザレから長い旅をすることになります。すでに臨月であった妻マリアと共に旅をしたのは、法律的に彼女も登録する必要があったからなのか、それともナザレに一人留まるのは居心地が悪かったのでしょうか、いずれにせよマリアにとっては苦難の旅だったでしょう。ところが到着したベツレヘムには、彼らがとまれる場所がありませんでした。妊婦に対して、ずいぶんと人情のない扱いをしているように感じられます。旧約聖書の掟によれば、流血はケガレと見なされていましたので、出産に伴う出血によって宿屋の商売に差し支えがあることを嫌がって、宿泊拒否をされたのかも知れません。人間の世界の、優しさに欠ける罪深さの只中に、イエス様はお生まれになられました。しかしそこから、世の罪を清め、新しい命を与えようとされる神さまの愛そのものである、イエス様の救いの出来事が始まりました。神さまの救いの愛は、人間の想像を超えて進み、世の闇の中に輝き出でる光です。
2024年12月15日
アドベント三本目のロウソクは、喜びを象徴する灯火です。羊飼いたちを象徴する灯火と言われることもあります。イエス様が生まれたベツレヘムは、昔から羊飼いの村として知られていました。新約聖書の舞台であるユダヤ王国にとって、古代の英雄であるダビデも、ベツレヘム村の羊飼い出身でした。イエス様がこのベツレヘム村で生まれたことには、英雄ダビデを重ねあわせる意味もありました。しかし神さまが天使たちを遣わしてイエス様のところに招いたのは、戦士達ではなく羊飼いたちでした。新約聖書の時代の羊飼い達は、罪深く、無学で、貧しい人々の代表的存在でした。彼らは都市生活者たちから離れ、孤独感の中で羊たちの世話をしなければなりませんでした。しかし神さまは社会構造にあらがうすべもない、羊のような存在を導く羊飼いの救い主としてイエス様をおつかわし下さいました。イエス様のお誕生を祝うクリスマスの喜びは、あらゆる弱さや罪深さに悩み、あるいは悩むことすら出来ない人々に与えられているのです。
2024年12月8日
詩編119編24節で「定め」と訳されているヘブライ語「エドュート」は、「証人/証言」あるいは「法律」などと言う意味があります。特に旧約聖書では神さまと人間との「契約」という意味でも用いられています。神さまの契約というのは、人間の側は神さまを信頼して生きるよう努め、神さまの側は人間を救い、幸いへと導いて下さるという約束のことです。この契約が人間にとって幸いなのは、人間の側はこの約束をしばしば忘れたり、破ったりするにも関わらず、神さまの側は決して裏切ることなく実現しようとし続けておられるということです。この神さまの側の変わらざる誠実と愛があればこそ、人間が罪を犯し、道を踏み外しても、再び神さまに立ち返り、悔い改めることが備えられています。この神さまの契約は新約聖書において、イエス様の十字架の出来事によって引き継がれ、新しくされました。誰でもイエス様を信じ、救われる人は、神さまの契約の中に入れられているのです。
2024年12月1日
アドベント第一週、一本目のロウソクは「希望」を象徴する灯火です。新約聖書では、この世界に来られた神のひとり子、救い主であるイエス様のことを希望の象徴として繰り返し記しています。ローマ5:5の「希望」は神さまを信じる人が抱く、さまざまな内容の希望であると同時に、イエスさまに象徴されている、人の人生全体を包括し、日々新しい命へと変えて下さる救いの希望を意味しています。苦しみや悩みは、自ら求めるものではありません。叶うことならば、避けたいし、早く取り去られることを望むものでしょう。しかし、苦難を忍耐し、苦難の只中にあっても喜び、怒りや憎しみに支配されず、平和を愛を願い続けることが出来るのは、忍耐の時が未来において必ず終わり、良き報いの時が備えられているという希望を抱いているからです。それどころか、希望があればこそ、苦難は忍耐と練達の経験を与え、人の心を成長させる糧となるのだと聖書は言っています。イエス様は冷たい石の心を光輝く活き活きとした心へと変える希望の力です。
2024年11月24日
畑に種を蒔かれた種は、その種の全てが健やかに育つわけではありません。途中でダメになることもあれば、こぼれ種が豊かな実を結ぶこともあります。種には、自ら成長する命の力が備えられていて、蒔いた人の意図を超えて生きていきます。イエス様は神の国というのは、その実現を願い、働いた第一の者の意図を超えて成長するものであると教えておられます。この箇所での「神の国」という言葉は、死後の理想的世界というよりも、神さまが人と共にいて下さるという点において理想的な社会という意味です。罪や弱さのある、人間の善意による活動には、常に限界があります。努力の全てが、必ずしも良い結果となるわけではありません。しかし、畑全体としては豊かな実りを得る、収穫の時を迎えることが出来るように、神の国もまた人間の拙さにも関わらず成長し、豊かな実を結ぶものだと、イエス様は教えておられます。豊かな収穫の時が来ると信じて、神さまの愛と救いの恵みを伝える神の国の種まきをしましょう。
2024年11月17日
秋はサツマイモの季節です。この辺りではあまり見かけませんが、昔は石焼きイモの販売車があちこちにいたものです。その代わりに近頃ではスーパーで温かい焼き芋を見かけるようになりました。芋には食物繊維が豊富だから、食べるとお通じが良くなるそうですね。快食快便は健康の秘訣です。しかし、もらしたり、トレイではないところで好き勝手糞尿をまき散らしたら迷惑ですし、そのままにしておいたら伝染病の原因にもなります。イエス様は「人の心から出るものが人を汚す(マルコ7:15など)」と言われました。様々な悪意、ねたみ、敵意などが人の心に湧き出て、それを言葉にして口に出すのは、相手を傷つけるだけではなく、あたかも汚物をまきちらすかのように、自分自身を罪深さでますます汚すことにもなると言うことです。ガラテヤ書5:24では、イエス様を信じて罪清められた人は、罪深い思いを十字架につけてしまったと表現されています。これは、イエス様を信じるようになれば絶対に悪いことを考えないというのではなく、汚物のような思いが心に湧いた時には、きちんとトイレでウンチをするように適切に処理をする、ということでしょう。イエス様が自分の罪深さを清めるために十字架についてくださったことを思い起こす時、自分のうちからもれそうな悪い思いを、神さまに対して祈りの中で告白し、きれいさっぱり洗い流していただくことが出来ます。十字架は心のトイレです。
2024年11月10日
イエス様は「ほうとう息子のたとえ」を用いて、罪を悔い改めて神の下に立ち返る人間の姿と、悔い改める前から罪を赦し、受け入れようと待ち続けている神さまの愛を示しておられます。「ほうとう息子のたとえ」は、主人公であるところの「ほうとう息子」が悔い改めて、父の家に戻ってきた後で、父の元で真面目に働き続けていたであろう兄息子の視点が語られています。兄息子は悔い改めて罪赦された弟は大歓迎されて喜ばれているのに、真面目に生きて、大きな罪を犯したわけでもない自分が喜ばれないのは不公平だと怒ります。愛情深い父親は兄息子のところに行って、彼をなだめます。弟の回心を喜ばない兄息子の心の狭さをとがめたりはしません。しかし、もしかすると当たり前すぎて忘れてしまっているかも知れないことを指摘します。兄息子は父といつも共にいる愛の関係があり、また、もはや自分の与えられた分を使い果たした弟息子とは違って、兄息子には真面目に働き続けたことで蓄えられた財産がありました。たとえ話は、兄がなだめられて終わりますが、その後の物語は聞き手が想像します。自分は兄か、弟か、そして今どのように生きていくのか、物語の続きは聞き手の人生の中で語られていくのです。