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2025年11月16日

この節は、イエスさまがご自身の死と、その死がもたらす実りをたとえで語った言葉です。十字架の「時」が来たことを受けて語られます。「一粒の麦」はイエスさまご自身のことでもあります。麦の粒は、そのまま大事に取っておけば一粒のままですが、土に落ちて「死ぬ」と、殻が壊れ、中のいのちが解き放たれて、多くの穂と実を実らせます。同じように、イエスさまが十字架で命をささげることによって、多くの人が救いにあずかり、新しいいのちを持つようになる、という意味です。同時に、このたとえは弟子たちにも当てはまります。続く箇所で、イエスさまは「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と言っておられます。自己中心を握りしめて生きれば、いのちの本当の実りは失われますが、神の御心のために自分を手放すとき、そこに多くの実りが生まれる、というキリスト者の生き方の原則が示されています。

2025年11月9日

イエス様は天国について、さまざまなたとえ話によって教えておられます。このたとえ話の商人は、人生の中で「本当に価値あるもの」を真剣に探している人を表し、一つの真珠は、天の国、キリスト、そして救いの象徴です。どんな成功、財産、安心よりも、神さまとの関係の方がはるかに価値があります。通常商人は「全部売り払う」ことはありません。商人はもうけが出るように考えて売るのであり、慌てて売り出すようなことをすれば、安く買いたたかれる可能性があります。しかし、たとえ話の商人が、通常の商売では損失となるような「全部売り払う」ことをしてでも現金化しているのは、たとえそうしたとしてもはるかに、そして本当に価値あるものを手に入れたいと思っているからです。「これこそ自分が探していたものだ」という発見の喜びからくる、優先順位の全面的な入れ替えが起きています。信仰とは、義務的に何かを差し出すことよりも、「最も尊いものを見いだした喜び」から始まる歩みなのであり、天の国を信じる生き方には、人の人生を新しく変える大きな希望が備えられているのだと、イエス様は教えておられるようです

2025年10月26日

救いの起点も成立も完成も「恵み」にあります。恵みとは、神が先行して与える好意であり、対価や功績に応じた報酬ではありません。「信仰によって」という句は、恵みが人に実際に適用される「受け取り方」を示します。信仰は、空の手で差し出して受け取る姿勢です。続く「このことは」が何を指すかは議論があります。文法的には中性形で、直前の「恵みによる救いが信仰を通して与えられる」という全体の出来事を指すのが自然です。すなわち、救いの計画も成就も、その人が自ら生み出したものではなく、丸ごと神の贈り物である、という強い宣言です。9節で人間の誇りが否定されるのは、信仰自体を“手柄”化する傾向への歯止めでもあります。信仰は“功績化”するとたちまち自己義認の高慢さに転じます。だから、救いの根拠(恵み)は神にのみ属し、救いの手段(信仰)は人の働きではない、と二重に釘を刺します。続く10節では、救いが善行を不要にするのではなく、むしろ「善いわざへ」と人を新創造することを示します。順序は決定的です――善いわざは救いの原因ではなく、恵みによって新しくされた者の実りです。

2025年10月19日

コヘレトの言葉は、必ずしも満足した報いがあるとは限らない人生の労苦を「空しい」と表現します。しかし、この空しさは何をしても無駄だから、努力をするのを止めようという投げやりな気持ちの表現ではなく、自分自身を幸せにしようと、自己中心的に生きようとすると、かえって幸せが遠ざかるものである、という逆説が示されているようです。人間は日頃の生活の必要を満たすために、様々に働き、努力をする必要があります。そうした努力自体はもちろん必要なことです。しかし24節では、働きの報いがたとえ小さく、ささやかであろうとも報いが少ないと不満に思わず、誰かと比較することなく喜ぶことが出来るのは、それ自体が神さまから与えられている恵みの一つであると教えているようです。コヘレトの語る空しさは、神さまを信じていても日々の生活の中で苦しみを感じ、時には言葉にして不満を語りたくなる人間の現実を示しています。しかしそうした不満を言葉にした時に不満で終わらずに、神さまが共におられ、日々必要なもので満たして下さると信じて感謝することが出来る人は、与えられている喜びに気付くことが出来るのだと、聖書は教えているのではないでしょうか。

2025年10月12日

健全な自尊心を持つことは大切なことです。しかし、自分を大切にするということを超えて、何でも自分中心になってしまったり、自分の都合で相手のある約束ごとを軽々しく変更したり破ったりすれば、信頼関係が損なわれてしまいます。軽々しくではなく、病気や体調、急な仕事など、やむを得ないと了解してもらえる事情があっても、約束ごとがたびたび破られるようではやはり信頼関係が損なわれてしまうかも知れません。個人の約束、政治の約束、組織の約束、どれも完全ではありません。約束が破られ、あるいは一部しか実行されないとき、人は失望を感じるでしょう。しかし、イエス・キリストは誠実さにおいて決して変わることがないので、救いの恵みについて約束を破ることがありません。時代と価値観の変化の中でも、イエス様は変わらない方として、人を愛し、罪人を憐れみ、救いへと導き続けておられます。この変わらざるキリストは、不完全な罪人が悔い改めて救われると信頼して下さっています。このイエス様を信頼する人は、人を過剰に信頼せず、イエス様の信頼において人を信頼する赦しの愛の心が与えられるのです。

2025年10月5日

「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」は、稲を10把で1束と数えることから生まれた言葉です。「いろいろな種類のものを無差別にひとくくりにする」という意味があります。しかしそこから転じて、無価値なものとして扱う、という意味で使われているようです。蔑む意味の無い本来の表現は、大きいのも小さいのも、みんな同じ稲として束ねるという意味ですから、人間の違いなど些細なことであり、みんな神さまの御手に包まれて仲良く、共に生きるのだ、という意味として使うことも出来るでしょうか。新約聖書の時代、雀はもっとも安価な食物の一つとして、十把一絡げに売られていました。一羽だけでは当時の小銭の単位である1アサリオン(数百円くらい?)で売ることすら出来なかったようです。しかし人間にとってはつまらない、価値の低いと見なされる存在でも、神さまは一人一人の魂を愛し、尊いものとしておられます。あらゆる人が神さまに愛され、尊ばれている十把一絡げとなって仲良く、共に生きていくことが出来ますように。

2025年9月28日

イエス様は、群れから迷い出た一匹の羊、家の中でなくした銀貨、家の財産を使い潰した息子、これらの価値あるものが、失われたと思っていたのに見つかる時、大いに喜ぶように、神さまは罪人が救われることを喜んで下さる方だと教えておられます。このような発見のたとえ話は、失われていたと思えても、実は本当に消えてなくなったのではなく、人間の側が自分の都合で神さまから離れて、その愛が見えなくなっていただけであり、神さまから近づき、探してくださってので、もう一度神さまの子どもとして、本来在るべきところに収まったのであり、必ずあると思ってなんとしても見つけようとして下さる神さまの、忍耐強い愛が示されています。しかし、今日の箇所ではむしろ人間の側が探すようにと教えられています。人間が何か足りないと思って追い求めている幸いの本質は、すでに神さまによって恵みとして備えられており、そう信じて探し続けるときに、発見することが出来るのだと教えられているようです。

2025年9月21日

癒された人々が夕方に来た理由については、色々な理由が考えられます。先ずこの日は安息日の日だったようです。ユダヤの一日の考え方は、日没から日没までです。日没後は次の日の始まりなので、夕方の日没後であれば安息日が終わり、新しい一週間が始まります。安息日が終わっているのだから、人々は安息日の違反行為として労働をしていると見なされることなく、安心して癒されることができました。次に、悪霊や病気の人は、当時の人々から汚れている、罪深いと見なされることがあったので、人目を開けて夕方にイエス様のところにやってきた、という理由があったのかも知れません。三つ目に、夕方は終わりの象徴でした。病気や悪霊に悩む人生が、イエス様との出会いによって終わり、神さまの愛によって新しい人生が始まったことを示しているのかも知れません。日本の文学の中では、日中が少なくなる秋は、夕暮れに重ねられ、悲しさや寂しさの表現として使われることがあります。しかし、イエス様の秋の夕暮れは、悲しみの終わりであり、喜びが始まる時なのかも知れません。

2025年9月14日

イエス様はたとえ話の中で、社会のなかで蔑まれ、孤立している罪深い人を、羊の群れからはぐれた一匹の羊になぞらえました。はぐれた羊は、羊飼いによって見つけられ助けられるのですが、助けられてなお一匹のままではなく、群れへと戻されます。罪深い者もまた、神さまによって救われ、悔い改めた後、同じ神さまによって養われる人々の中へと導かれていきます。このたとえ話の中では、残る99匹の羊の群れは、罪を犯していない正しい人の象徴でもあります。この正しい人々は、悔い改めた罪人を仲間として受け入れることが出来る神さまの愛による正しさに生きる人々です。しかし、99匹の羊たちも、別の時には迷い出る一匹の羊となる可能性があります。あるいは、99匹の羊たちもまた、かつては迷い出て再び連れ戻された一匹の羊であったのかも知れません。天にある大きな喜びは、神さまの喜びというだけではなく、神さまを信じ、共に生きる全ての存在が、自分自身のように喜ぶことが出来る、共同体全体の喜び、羊の群れ全体の喜びでもあるのかも知れません。迷える羊が、今日もイエス様によって導かれると信じます。

2025年9月7日

聖書の世界パレスチナ地方でも、9月がぶどうの季節です。麦は、秋に蒔かれて、春に収穫されます。詩編4編8節の言葉は、春と秋、二つの季節に共通する収穫の喜びを表現しています。続く9節では、平和と睡眠という表現が出てきます。収穫は喜びですが肉体的には疲れる仕事です。豊かに収穫できたからこそ、安心して疲れた身体を休めることが出来ます。もし不作であれば心穏やかならず、身体も心も十分に休めることが出来ないこともあるでしょう。だから聖書の信仰者たちは、実りの豊かさは、自分たちの努力や農業技術の結果だけだと思わずに、見えざる神さまの人間に対して平安を与え癒そうとして下さる愛の配慮があると信じたのでした。しかしいつでも実り豊かな時ばかりとは限りません。4編の前半は苦難と罪深さに悩む人の祈りです。人間的には十分な実りが得られていない時、失敗し落ち込んでいる時、自己中心的な罪深さに気付かされる時、罪を赦し清め、新しい人生を与えて下さる神さまの愛を思い起こす人は、天国を目指して生きる喜びに満たされるのです