信仰を持つと、周りの理解が得られないことや、続けるほど地味に消耗することが起こります。それでも真面目に、誠実に生きている人をイエスさまは「ちゃんと見ているよ」と受け止めてくださいます。がんばりが空振りだったわけじゃない、という安心を与えて下さいます。信仰の歩みの中で、正しさを守ること、奉仕を続けること、粘り強く耐えることはとても尊いことです。ただ、その一方で、気づかないうちに“愛の温度”が下がることがあります。やるべきことは増え、間違えないように気を配り、責任感で動けるようになる。でも、最初にあった素直な喜び、感謝、神への親しさ、人へのあたたかさが薄れていくこともあります。「初めの愛」は、イエスご自身への愛とも、仲間や隣人への愛とも受け取れます。家族や親しい人との関係でも、用事はこなすけれど会話が減り、気遣いが形式になってしまう、ということがあるでしょうか。頑張る人ほど、神様の愛と共にある信仰生活を、忘れないようにしよう、と聖書は教えています。
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2025年12月21日
マタイによる福音書2章1-11節に記されているイエス様のお誕生の出来事、主人公は東の方から来た人々です。彼らは東の方で不思議な星を見たというので、はるか遠くのベツレヘムまでやってきました。しかし、彼らがなぜ、不思議な星によって示された「ユダヤの王を拝みに来た」のか、その理由については記されていません。ペルシアのあたりで社会的地位は高かった占星術の博士たちが、治安の悪い地域を長旅してまで会いに来たのは、何か心に満たされないものがあったり、言葉で表現しきれない苦しみからの救いを求めていたのかも知れません。彼らは旅の目的地がはっきりしないまま旅に出て、尋ねて探し、星に導かれてイエス様へとたどり着きます。そしてまだイエス様がどのような救いをもたらされる方であるのかは、はっきりとは解らないけれども、未来への救いの希望を抱いて喜びました。このクリスマスの旅は、人がイエス様へと導かれる人生の象徴でもあります。夜空に輝くものばかりではなく、人の悩みの闇の中に、イエス様の救いの希望へと導く星は、全ての人々の上に今も輝いています。
2025年12月14日
本日はイエス様のお誕生をお祝いするクリスマスの待ち望む期間、アドベントの第三日曜日です。アドベントキャンドルの三本目のろうそくは、「喜び」を象徴するともしびです。手紙の著者パウロは順境の中で語っているのではなく、囚われの身として教会に手紙を書いています。この喜びは気分の高揚や「楽しいことが起きたから」の反応ではなく、神さまが共におられることを信じる時に思い起こすことが出来る喜びです。だから状況が揺れても、喜びは消えません。続く5節で「主は近い」と語られるように、イエス様がこられるというのは未来の出来事であると同時に、今ここへと近づき続けています。この喜びは内面の感情に閉じず、優しさやゆるしとして外へにじみ出て行きます。アドベントは整えられる季節でもあります。悔い改めは暗い自己否定ではなく、イエス様の救いがすでに始まっていることへの希望の応答です。悔い改めと喜びは対立せず、同じ救いの恵みです。待ち望む者の喜びは、問題が消える前に与えられる平安を伴います。私たちは出来事の成否ではなく、来てくださるキリストの確かさに支えられて、今日を静かに喜ぶのです。
2025年12月7日
アドベントキャンドルの二本目は「平和」を象徴する灯火です。聖書で「平和」と訳される言葉「シャローム」は、戦争などの大きな争いに対する平和という意味だけではなく、人の心の「平安」という意味を含むある包括的な概念です。状況が好転したら得られる安心、問題が解決したら戻ってくる平穏、人間関係や環境がととのった時の安堵のような「世の平和」は好ましいものです。しかしイエス様が与えて下さる平和は、状況が揺れても、先が見えなくても、損失や痛みがあっても、心を騒がせるような時こそ、心の深い場所が支えられる、どんな時も与えられる平安です。イエス様がお生まれになられる次第、そしてイエス様がお生まれになられた世界は、穏やかならざるところでした。クリスマスの主であるイエス様は、揺れ動く不安定な世の中に生きる人々のところに来て下さり、苦難の中に生きるすべての人々を励まし、揺らぐことのない確かな救いの約束によって、この世の平和を超える喜びに満ちた平和を与えて下さる方です。
2025年11月30日
「株」と訳されたヘブライ語「ゲザ」は、木の幹や木の根元、という意味です。しかし、直前の10章34節では、高慢の罪に陥った神の民イスラエルが、切り倒される木々になぞらえられ、滅びの宣告を受けています。そこで11章1節ではすでに「切り株」となり、一度死んだ状態となった神の民が新しい命を神さまからいただいて復活するという赦しと恵みの預言として表現されています。切り株から出てくる若枝を「ひこばえ」と呼ぶことがあります。漢字だと「孫生え」と当てるようです。ヘブライ語にはこのような意味はないはずですが、不思議と、エッサイの子孫としてのイエス様という意味と重なります。このひこばえは、イエス様のことであると同時に、イエス様を信じて共に生きる人々が新しく命をいただいて生きる姿の象徴でもあります。小さなひこばえが巨木となるように、イエス様のお誕生は小さく始まり、世界中に枝を伸ばすクリスマスツリーのような大きな恵みです。
2025年11月23日
このたとえ話では、神の国が、小さな始まりから、やがて驚くほど大きく成長する、という逆転の論理を示しています。からし種は当時の人々にとって「最も小さいもの」の代名詞でした。イエスさまの活動も、ガリラヤの片隅で始まった小さな集団でした。しかし、その小さな始まりの中に、神さまの力と約束が秘められています。私たちが日々の中で行う、ごくささやかな祈りや隣人への愛の行為が小さく見えても、神さまの視点からはからし種のように尊く、やがて思いがけない実を結ぶ可能性を持っています。空の鳥が来て枝に宿る、というイメージは、神様を信じるいろいろな人が身を寄せる場所のなぞらえです。神さまのおられる場所は多くの人に憩いと安全をもたらす包容力のある場所です。目に見える成功がないときでも、信仰と愛に根ざした小さな選択を続けるとき、その中で静かに神の国は育っているのだとイエス様は教えておられます。
2025年11月16日
この節は、イエスさまがご自身の死と、その死がもたらす実りをたとえで語った言葉です。十字架の「時」が来たことを受けて語られます。「一粒の麦」はイエスさまご自身のことでもあります。麦の粒は、そのまま大事に取っておけば一粒のままですが、土に落ちて「死ぬ」と、殻が壊れ、中のいのちが解き放たれて、多くの穂と実を実らせます。同じように、イエスさまが十字架で命をささげることによって、多くの人が救いにあずかり、新しいいのちを持つようになる、という意味です。同時に、このたとえは弟子たちにも当てはまります。続く箇所で、イエスさまは「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と言っておられます。自己中心を握りしめて生きれば、いのちの本当の実りは失われますが、神の御心のために自分を手放すとき、そこに多くの実りが生まれる、というキリスト者の生き方の原則が示されています。
2025年11月9日
イエス様は天国について、さまざまなたとえ話によって教えておられます。このたとえ話の商人は、人生の中で「本当に価値あるもの」を真剣に探している人を表し、一つの真珠は、天の国、キリスト、そして救いの象徴です。どんな成功、財産、安心よりも、神さまとの関係の方がはるかに価値があります。通常商人は「全部売り払う」ことはありません。商人はもうけが出るように考えて売るのであり、慌てて売り出すようなことをすれば、安く買いたたかれる可能性があります。しかし、たとえ話の商人が、通常の商売では損失となるような「全部売り払う」ことをしてでも現金化しているのは、たとえそうしたとしてもはるかに、そして本当に価値あるものを手に入れたいと思っているからです。「これこそ自分が探していたものだ」という発見の喜びからくる、優先順位の全面的な入れ替えが起きています。信仰とは、義務的に何かを差し出すことよりも、「最も尊いものを見いだした喜び」から始まる歩みなのであり、天の国を信じる生き方には、人の人生を新しく変える大きな希望が備えられているのだと、イエス様は教えておられるようです
2025年10月26日
救いの起点も成立も完成も「恵み」にあります。恵みとは、神が先行して与える好意であり、対価や功績に応じた報酬ではありません。「信仰によって」という句は、恵みが人に実際に適用される「受け取り方」を示します。信仰は、空の手で差し出して受け取る姿勢です。続く「このことは」が何を指すかは議論があります。文法的には中性形で、直前の「恵みによる救いが信仰を通して与えられる」という全体の出来事を指すのが自然です。すなわち、救いの計画も成就も、その人が自ら生み出したものではなく、丸ごと神の贈り物である、という強い宣言です。9節で人間の誇りが否定されるのは、信仰自体を“手柄”化する傾向への歯止めでもあります。信仰は“功績化”するとたちまち自己義認の高慢さに転じます。だから、救いの根拠(恵み)は神にのみ属し、救いの手段(信仰)は人の働きではない、と二重に釘を刺します。続く10節では、救いが善行を不要にするのではなく、むしろ「善いわざへ」と人を新創造することを示します。順序は決定的です――善いわざは救いの原因ではなく、恵みによって新しくされた者の実りです。
2025年10月19日
コヘレトの言葉は、必ずしも満足した報いがあるとは限らない人生の労苦を「空しい」と表現します。しかし、この空しさは何をしても無駄だから、努力をするのを止めようという投げやりな気持ちの表現ではなく、自分自身を幸せにしようと、自己中心的に生きようとすると、かえって幸せが遠ざかるものである、という逆説が示されているようです。人間は日頃の生活の必要を満たすために、様々に働き、努力をする必要があります。そうした努力自体はもちろん必要なことです。しかし24節では、働きの報いがたとえ小さく、ささやかであろうとも報いが少ないと不満に思わず、誰かと比較することなく喜ぶことが出来るのは、それ自体が神さまから与えられている恵みの一つであると教えているようです。コヘレトの語る空しさは、神さまを信じていても日々の生活の中で苦しみを感じ、時には言葉にして不満を語りたくなる人間の現実を示しています。しかしそうした不満を言葉にした時に不満で終わらずに、神さまが共におられ、日々必要なもので満たして下さると信じて感謝することが出来る人は、与えられている喜びに気付くことが出来るのだと、聖書は教えているのではないでしょうか。